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書き残そう、世界の歴史の物語

No.22(西)十字軍とその影響・東方植民とレコンキスタ

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しま:第6回、第7回の十字軍は、もはや末期の十字軍です。指導したのはどちらもフランス王ルイ9世。あだ名は聖王。まじめで熱心な宗教徒だったんだけど、第6回ではエジプトに遠征して捕虜となり、莫大な身代金を払って釈放してもらい終了。第7回ではエジプトまで行けず、フランスの対岸にあるチュニスを攻撃したところで、病死して終わり…。相手はマムルーク朝ね。

 

生徒:もう、ダメダメじゃないですか。

 

しま:ほぼ200年に及ぶ十字軍だったけど、聖地イェルサレムを維持することはできず、ビザンツ帝国を救うという目的からも外れ、結局何のためにやったのかわからないもうなんなんだこれとなってしまいました。1291年に最後の拠点、アッコンが陥落して、十字軍終了です。

 

生徒:尻すぼみで終わっちゃいましたね。

 

しま:一般民衆が宗教的情熱からイェルサレムに向かったり、子供たちだけで行われた少年十字軍なんていうのもあったんだけど、だいたいが途中で襲われたり、人さらいにあって奴隷に売られたりして、目的地に到着することすらできませんでした。あと、聖地巡礼者を守る目的で宗教騎士団という団体が結成されました!

 

生徒:宗教騎士団。具体的には?

 

しま:まず、第1回目に結成され、今もまだローマで存続しているヨハネ騎士団。それからテンプル騎士団。ここは、フランス王のフィリップ4世が、財産を狙って解散させられちゃいました。そして第3回に結成されたドイツ騎士団。のちに東方植民の主力となったのが、このドイツ騎士団です。ドイツ騎士団は、プロイセンという国の母体となります。以上。

 

生徒:先生。結局のところ十字軍ってヨーロッパの歴史にどんな影響を与えたんですか?

 

しま:ざっくりまとめると…

 

.言い出した教皇の権威が衰えた。

.従軍した諸侯、騎士は戦費の負担から没落し、相対的に国王の王権は強化された。

.アジアとの貿易(=東方貿易)が活発化し、商業と都市が発展し、商業を担う新興市民階級が台頭した。

.イスラーム文明が西欧に伝えられ、ヨーロッパ文化の発展に大きな影響を与えた。

 

と、こんなところかな!?

 

しま:続いて12世紀に始まった東方植民です。

 

生徒:動画も観ましたが、文章でもよろしくお願いします!

 

しま:ドイツのエルベ川より東の地域は、未開の土地が多く残っていました。そこに住んでいるスラヴ人を征服しながら、この土地をドイツの諸侯が積極的に開墾していったのが東方植民です。エルベ川以東の領主は有利な条件で農民を誘い、多くの農民が開拓民として移住していきました。第3回十字軍の時に結成されたドイツ騎士団という武装した修道士たちも、積極的にこの運動を行ってスラヴ人キリスト教化につとめました。東方植民はそんなとこ。

 

生徒:動画と文章を合わせて学習して、もう完璧ですね!じゃあ次はレコンキスタ、お願いします!

 

しま:5世紀初めに、イベリア半島ゲルマン人がある国を作りましたよね。なんていう国でしたか?

 

生徒:西ゴート王国です!

 

しま:正解!西ゴート王国は、415年~711年まで、約300年近く続きました。711年と言えば、イスラーム勢力が拡大する時期。ずばり、西ゴート王国滅亡の原因は、ウマイヤ朝の侵攻でした。さて、西ゴート王国を滅ぼしたウマイヤ朝は、そのままフランスとの国境にあるピレネー山脈を越えてフランク王国への侵入を試みます。

 

生徒:でも、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国メロヴィング朝の宮宰、カール゠マルテルに撃破されるんでしたよね。

 

しま:その通り。ピレネー山脈以東に領土を拡大できなかったイスラームイベリア半島を支配することになったのです。しかし、イベリア半島キリスト教徒も頑張りますよ。奪われた土地を回復するため、718年~1492年まで国土回復運動(=レコンキスタ)を行います。レコンキスタスペイン語読みなので、英語だと“reconquest”すなわち再征服という意味になります。12世紀のイベリア半島を見ると、アラゴンカスティリャナバラポルトガルといったキリスト教の国々がそれぞれ勢力を拡大しています。この頃のイスラームは、ちょうどムラービト朝からムワッヒド朝に代わる頃でした。そして13世紀前半、いよいよイベリア半島最後のイスラーム王朝となるナスル朝が成立します。首都はグラナダ

 

生徒:グラナダと言えば、アルハンブラ宮殿ですね。

 

しま:イスラーム建築の代表だね。さて、イベリア半島キリスト教国の中で、いちはやくイスラーム勢力を撃退したのはポルトガルでした。ポルトガルは、そのまま大西洋へと飛び出し、大航海時代を始めます。アラゴンカスティリャも、ポルトガルに対抗したいんですが…そのためにはナスル朝を倒さないといけない。そこで両者は合併します。カスティリャの王女イサベルとアラゴンの王子フェルナンドが結婚し、1479年スペイン王国成立です。そして1492年、スペイン王国アルハンブラ宮殿無血開城させ、グラナダ陥落。ナスル朝はこれで滅亡となります。レコンキスタ完了です。

 

生徒:コロンブスがサン゠サルバドル島に到達したのも1492年なのって偶然ですか?

 

しま:偶然ではありません。イサベル女王は、イスラーム教徒が残していった財産でコロンブスを援助したんです。あと、動画では話しませんでしたが、イサベル1世はユダヤ教徒の追放を企てるんです。ユダヤ教徒に対して、「キリスト教に改宗しないなら、財産を置いて出て行きなさい!」と命令したんですよ。

 

生徒:信仰深いユダヤ教徒が、それで改宗するとは思えないですが…

 

しま:もちろん。イサベル1世もユダヤ教徒が絶対に改宗しないことを確信していました。つまり、ユダヤ教徒の財産を最初から狙っていたというわけです。じゃあなぜお金が必要だったのか…。ユダヤ教徒追放令が出されたのが1492年の3月10日。コロンブスの新大陸発見が1492年の10月12日。そう、彼女はコロンブスの航海を支援するための資金を必要としていたんです。もちろんこれはポルトガルに対抗するため。レコンキスタ完了の年と新大陸発見の年が同じなのは、決して偶然ではないんです。

No.21(西)十字軍とその影響①

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しま:今回は十字軍ですよ!

 

生徒:十字軍!キリスト教徒の戦いですね!

 

しま:まずは十字軍の背景から勉強していこう!11世紀以降、三圃制や鉄製重量有輪犂などの農業の進歩によって収穫量が増大し、人口が増加しています。西欧のなかで蓄えられたエネルギーは、やがて外の世界へと向かっていく。一つ目はイスラーム世界へ、これが十字軍ね。二つ目は東ヨーロッパへ、これが東方植民。三つ目はイベリア半島へ、これがレコンキスタ(国土回復運動)ですわ。

 

生徒:なるほど。封建社会が安定したところで、十字軍はスタートしたんですね!

 

しま:当時、宗教的情熱の高揚に伴い、聖地巡礼ブームが起きていたことも一つの要因です。具体的な巡礼地は、イェルサレム、ローマ、そしてスペインのサンチアゴ゠デ゠コンンポステラ。ここはスペインに布教したヤコブの墓があるんだ。

 

生徒:イェルサレムと言えばユダヤ教キリスト教イスラーム教の共通の聖地ですよね?

 

しま:その通り。で、ここは当時イスラーム支配下にありました。熱心なキリスト教徒はヨーロッパから巡礼に出かけていたんです。ところが、セルジューク朝支配下に入ってからは巡礼が妨害されている…。これが十字軍呼びかけの背景の一つでした。

 

生徒:直接的な契機は?

 

しま:セルジューク朝小アジアに勢力を伸ばしてきて領土を奪われたビザンツ帝国の皇帝アレクシオス1世が、ローマ教皇に救援を要請したことです。救援依頼を受けた教皇はウルバヌス2世。ちょうどグレゴリウス7世の叙任権闘争教皇権が強まっていた頃だね。1095年、ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議に集まったヨーロッパ各地の諸侯たちに“ビザンツ救援”と“聖地イェルサレム回復”のための遠征軍を呼びかけます。宗教的熱狂が高まる中、こうして十字軍が始まります!

 

生徒:あれ?でもこの時って、東西教会は分裂してますよね?

 

しま:しています。東西教会の分裂は1054年だからね。だから、ウルバヌス2世の意図としては、これを機会にもう一度キリスト教会を統一しようってわけ。

 

生徒:なるほど!そんな思惑もあったんですね!

 

しま:まぁ結局は叶わなかったけどね。では、みていきましょう!まず第1回十字軍。主力はドイツやフランスの諸侯。みごとイェルサレムの回復に成功します!十字軍はここにイェルサレム王国を建設し、諸侯のひとりを王に推戴しました。

 

生徒:幸先良いですね。

 

しま:イェルサレム王国を建てた十字軍ですが、国を維持するために物資の補給を担当したのはイタリアの商人たちでした。ジェノヴァヴェネツィアといった商業都市がイタリアにあって、輸送を担当し大儲け。しかし、やがてこのイタリア商人たちが十字軍の主導権を握っておかしな方向へと進むことになるので要注意…。さて、イスラーム側も反撃開始です。イェルサレム王国からじわじわと領土を奪い始めます。これに対して、第2回十字軍が行われる。けど失敗。“第2回は救援失敗”とだけ覚えておきましょう。その後もイェルサレム王国の領土縮小は続きます。エジプトでアイユーブ朝を建てたサラディン(サラーフ゠アッディーン)に、とうとうイェルサレムを奪い返されてしまいました。これに対して行われたのが第3回十字軍。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、仏王フィリップ2世、英王リチャード1世という超豪華メンバーの共演です。しかし、フリードリヒ1世は川を渡る際、馬から落ちてそのまま溺死。残る2人は仲が悪くてケンカばかり。とうとうフィリップ2世は帰っちゃいました。

 

生徒:最後はリチャード1世が単独でサラディンと戦ったんですね。

 

しま:そう。でも、イェルサレムを奪うことはできない。この時のサラディンの態度は、十字軍の残虐ぶりとは正反対で超寛大。リチャード1世が胸を張って帰国できるようにメンツを立ててあげるんです。そのメンツとは“キリスト教徒の聖地巡礼を認める”ということでした。

 

生徒:すごい!サラディン男前や!

 

しま:第4回は、教皇権の絶頂期であるインノケンティウス3世の提唱で行われるんだけど…これがおかしな十字軍なんです。“方向転換十字軍”なんて呼ばれることもある。

 

生徒:ん?イェルサレムへ行かなかった、ということですか?

 

しま:兵士たちはもともと海路で遠征するつもりでヴェネツィアに集結しました。ところが、お金がなくて船賃が払えない。ヴェネツィア商人たちにとっては宗教的情熱よりも商売が大事だから、金を払わない客は運びません。結局船賃代わりに十字軍兵士はヴェネツィアの商売敵であったコンスタンティノープルを攻撃させられるんです。救援を要請してきたビザンツ帝国を攻めてしまうというのは本末転倒。しかもコンスタンティノープルの攻略に成功して、ここにラテン帝国という国まで建ててしまうんです。これで、一時ビザンツ帝国亡命政権を作ることになりますが、やがてそのニケーア帝国がラテン帝国を滅ぼし、ビザンツ帝国を復活させます。

 

生徒:亡命政権だなんて、おかしな話ですね。

 

しま:第5回は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が行います。この皇帝はシチリア島出身で、国際的な教養を身に付けていた異色の人。軍隊を率いて現地まで行くけど、一度もイスラーム勢力と戦わずに、なんと外交交渉だけでイェルサレムを手に入れて帰ってきます。“無血十字軍”とも言います。とりあえず、今回はここまで!

No.20(西)スラヴ人②

しま:前回に引き続き、今日もスラヴ人の歴史を追っていきましょう!ただ、今日は純粋なスラヴ人国家というのは出てきません。

 

生徒:どんどんお願いしまっくす。

 

しま:まず、トルコ系ブルガール人が建てたのがブルガリア王国です!ただ、ブルガール人は大多数の南スラヴ人に同化されていきました。ブルガリア帝国は9世紀に建てられ、いったんビザンツのバシレイオス2世に征服された後、12世紀に復活します。宗教はギリシア正教。こんなとこかな。

 

生徒:宗教をおさえるのがポイントでしたね!

 

しま:その通り!さぁ、いよいよロシアです。ノルマン人のとこで勉強したリューリク率いるルーシ人が建てたノヴゴロド国。さらに南下して建てられたキエフ公国。このキエフ公国のウラディミル1世が、ビザンツ皇帝のバシレイオス2世の妹と結婚したことでギリシア正教が国教化されます。しかし、13世紀に入ると、バトゥの建国したキプチャク゠ハン国の支配下に入る。これを「タタールのくびき」という。タタールとはモンゴルの部族名、くびきは…画像を検索してみてください。

 

生徒:バトゥって、あの1241年のワールシュタットの戦いで、ポーランドを壊滅させたモンゴル人?

 

しま:そうです!そんなキプチャク゠ハン国の中で、次第にモスクワ大公国が力をつけてきます。そしてとうとう1480年、イヴァン3世の時にモスクワ大公国はモンゴル人の支配から独立します!イヴァン3世は、ビザンツ帝国(1453年に滅亡)の最後の皇帝であるコンスタンティノス11世の姪ソフィアと結婚したため、ビザンツ帝国の後継者だと主張します。そして、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルは、ローマを受け継ぐ“第2のローマ”とされていたため、モスクワをそのコンスタンティノープルを受け継ぐという意味で“第3のローマ”と呼ぶようになります。さらにイヴァン3世は、カエサルを意識して自分のことを“ツァーリ”と呼ばせようとします。

 

生徒:さ…さすがにやりすぎでは…

 

しま:この称号は、彼の孫であるイヴァン4世の時に正式に皇帝の称号として使用されるようになります。さて、雷帝のあだ名で知られるイヴァン4世ですが、大貴族を弾圧してツァーリズムと呼ばれる皇帝専制主義の基礎を固めました。しかし、彼は家庭内でも雷帝だったようで、親子ゲンカの末、一人息子を杖で殴り殺してしまいます。

 

生徒:この人もやり過ぎかい!

 

しま:後継者を失ってしまったモスクワ大公国は、これで断絶。あららって感じですね。そこで、選挙によってミハイル゠ロマノフが選ばれ、1613年からロシアはロマノフ朝となっていきます。ロマノフ朝は、この後1917年にロシア革命で滅ぼされるまで、約300年間ロシアの帝政を支えることになります。

 

生徒:そしてソ連に続いていくわけかぁ

 

しま:そういうこと!じゃあ、ラストスパートや!続いてアジア系のマジャール人!9世紀頃、現在のハンガリーに移住してきて、先住のスラヴ人と同化し、10世紀頃ハンガリー王国を形成します。15世紀にはマーチャーシュ1世の時に最盛期を迎える。宗教はカトリック。ちなみにハンガリーのハンは、フン族のことを指してましたよね!

 

生徒:ってことは、この地域はフン人、アヴァール人、そして最後にマジャール人って順番で民族がやってきたんですね。

 

しま:そうなります。よし、じゃあ最後はラテン系のルーマニア人。とは言ってもルーマニアという国は当時ありません。14世紀頃にワラキア公国、モルダヴィア公国が建設されました。宗教はギリシア正教です。もともとここは、五賢帝トラヤヌス帝の時代に領土となった場所。だからローマ人(ラテン系)の土地という意味で、ルーマニアという名前が今も残っているんだよ。最後はオスマン帝国に支配されました。

 

No.19(西)スラヴ人①

しま:今回はスラヴ人です!スラヴ人はもともとカルパティア山脈の北側の地域に住んでいましたが、ゲルマン人の奴隷となってゲルマン人と共に移動したグループと、そのまま残ったグループが居ます。東欧一帯に残ったスラヴ人は大きく西スラヴ・南スラヴ・東スラヴの3つに分けられます。このあいだに、スラヴ人じゃないルーマニア人(ラテン系)とか、マジャール人(アジア系)が入ってます。ややこしいね。

 

生徒:ゲルマン人の奴隷かー…。はっ!もしかして!!!奴隷を意味する英単語のslaveって「スラヴ」から来てますか!?

 

しま:そうです!さて、スラヴ人はみんな同じ宗教かと言うとそうじゃありません。ビザンツ帝国に近い東スラヴと南スラヴの一部はギリシア正教。文字はキリル文字というギリシア文字を変形させたものです。一方、西スラヴは、フランク王国神聖ローマ帝国の影響を受けているのでローマ゠カトリックを信仰しています。文字はラテン文字スラヴ人の中でも試験でよく出題されるのは、ポーランドセルビア・ロシアかな。

 

生徒:じゃあポーランドからお願いします!

 

しま:西スラヴに分類されるポーランド人は、10世紀にピアスト朝ポーランド王国を建てて、ローマ゠カトリックを受容します。しかし、これが1241~1242年に起きたワールシュタットの戦いでボロボロになる。この時代はモンゴルの全盛期。バトゥの遠征軍によって、ポーランド壊滅です。ちなみにワールシュタットは「死体の山」という意味。場所の名前からリーグニッツの戦いとも言うのでご注意を。

 

生徒:バトゥ率いるモンゴル軍はめちゃくちゃ強かったわけですね…。

 

しま:まもなくしてカジミェシュ大王(3世)が登場し、クラクフ大学を建てるなど国の立て直しを図りますが、今度は北方から現れた新しい敵の圧迫を受けることになります。

 

生徒:何者ですか!?

 

しま:十字軍の遠征が終わってドイツに戻って来たドイツ騎士団です。彼らは神聖ローマ皇帝の命令を受け、ポーランドをはじめとするスラヴ人地域の征服…すなわち”東方植民”を行っていました。そこでポーランドは、同じくスラヴ系のリトアニア人と手を組み、リトアニアポーランド王国(ヤギェウォ朝)を成立させます。そして、1410年タンネンベルクの戦いドイツ騎士団を撃破!敗れたドイツ騎士団は、ヤギェウォ朝の諸侯となります。

 

生徒:ヤギェウォ朝の断絶後は、選挙王政になるのですね。

 

しま:その通り!さて、続きましてチェック人は西スラヴでカトリックスロヴェニア人とクロアティア人は、南スラヴでカトリック。で、セルビア人よ。ここはギリシア正教なんです。14世紀前半のステファン゠ドゥシャン王の時にはバルカン半島北部を征服して一大国家を築きますが、14世紀末にオスマン帝国に負けてほとんどの領土を取られてしまいました。これは、セルビア人にとって非常に屈辱的な事件でした。

 

生徒:そんなにですか?

 

しま:1389年、コソヴォの戦いが行われた6月28日は、セルビア人にとって国恥記念日となっています。

 

生徒:国恥記念日!すごい記念日ですね!

 

しま:記念日には何かが起こるものですよね…オーストリアハンガリー帝国の皇位継承者の夫妻が、サライェヴォ(当時はオーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領)を視察中にボスニア出身のセルビア人青年によって暗殺された事件が起こったのも、6月28日のこと。

 

生徒:まさか!サライェヴォ事件!!!

 

しま:そう。1914年、第一次世界大戦の始まりですよね。あの日は偶然ではなかったのです。

No.17(西)教皇権の絶頂と衰退

しま:13世紀に入ると、托鉢(たくはつ)修道会が登場します。この修道士たちは何の財産も持たず、信者の施しを乞うて(=托鉢)生活していきます。その代表が、中部イタリアのフランチェスコ修道会と南フランスのドミニコ修道会。特にドミニコ修道会は、異端であるアルビジョワ派の弾圧を行いました。

 

生徒:アル…アルビジョワ派…?

 

しま:マニ教の影響を受けたキリスト教カタリ派の、南フランスでの呼称ですね!

 

生徒:あ、なるほど!…なるほど?

 

しま:さぁ、13世紀初め、教皇権はインノケンティウス3世[位1198~1216]の時に絶頂期を迎えます!彼は「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語し、皇帝に対する優位性を誇示し、1209年にはジョン王を、カンタベリ大司教の人選を巡って破門しています。また、第4回十字軍を提唱したのもこのインノケンティウス3世でした。

 

生徒:教皇権の絶頂=インノケンティウス3世!!!覚えました!

 

しま:さて、約200年にわたる十字軍が失敗に終わり、教皇権が弱まったところで聖職者への課税案が浮上します。聖職者には、当時も税金がかかりませんでした。しかし、フランス国王フィリップ4世は、聖職者へ課税をしようと、1302年に身分制議会の「三部会」を初開催。時の教皇、ボニファティウス8世[位1294~1303]は、これが気に食わないので必殺破門ビームを繰り出します。

 

生徒:出た!破門ビーム!これでフィリップ4世もおわりですね…

 

しま:しかし…これが効かない!当時のフィリップ4世は、破門されて家畜になろうが、配下の諸侯たちを従わせるだけの実力があったんです。それどころか、なんとフィリップ4世は、ボニファティウス8世をローマ近郊のアナーニというところに幽閉しちゃう。これが1303年、アナーニ事件です。ボニファティウス8世はあまりの悔しさから解放後に怒り狂い憤死してしまいます。

 

生徒:憤死!悔しさMAX!!!

 

しま:そして、間もなく教皇庁はフランスへと移されます。1309年より、教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移された時期を“教皇のバビロン捕囚”[1309~1377年]と言います。その後、教皇がローマへ戻ると、アヴィニョンにもフランスの後押しを受けた別の教皇が登場して、両教皇とも正統性を主張し対立します。さらにはピサにも教皇が出てきてしまう。これを教会大分裂(=大シスマ)[1378~1417年]と言う。1054年の東西教会の分裂と間違えないように!

 

生徒:大シスマは、あくまでローマ゠カトリック教会の中の分裂ですもんね。

 

しま:さて、この状況を受けて聖書こそ信仰の最高の権威である!という聖書主義を主張する2人の人物が登場します。一人はイギリスのオクスフォード大学で聖書をラテン語から英訳していたウィクリフ。もう一人は、ベーメンプラハ大学で聖書のチェコ語訳をしていたフスです。のちのルターによる宗教改革の先駆けですね。結局、1414~1418年に神聖ローマ皇帝ジギスムントによって開催されたコンスタンツ公会議で、ローマ教皇を正統として教会は統一され、教皇を批判したフスは火炙りの刑となってしまいました。ちなみにウィクリフはもう亡くなっていたのでわざわざ遺体を掘り起こして火炙りにされてしまいました…。

 

生徒:大シスマ終了ですね。

 

しま:教会の統一以降、ローマ教皇権の復活を強調するため、教会は文化に力を入れます、これがイタリア゠ルネサンス!当時の教皇はレオ10世[位1513~1521年]です。サン゠ピエトロ大聖堂改築資金を集めるために贖宥状を販売した教皇ですね。そして、1545年のトリエント公会議で、教皇パウルス3世[位1534~1549]は「宗教改革なんて認めないぞ!カトリックこそ最強!」とアピールし、対抗宗教改革を打ち立てます。これ以降、教皇の力は上がりも下がりもせず現在に至る…というわけです。

 

生徒:1545年だから…“以後、横ばい”のトリエント!ですね!

No.16(西)ローマ゠カトリック教会の発展

しま:今日から2回は、ローマ゠カトリック教会のお話です。ローマ゠カトリック教会には、教皇を頂点とした聖職者の階級制度があります。これをヒエラルキーといって、確立するのは12世紀頃。国王や貴族から荘園が寄進され、農奴からも十分の一税が集まってくるので、教会には富と権力が集中していきます。

 

生徒:タテ社会なんですね!

 

しま:また、キリスト教徒の修業の場というか、共同生活の場というか学校というか…修道院というものがあります。ここで信徒は祈り、働き、そして布教活動を行うのです。初の修道院ができたのは529年。ベネディクトゥスという人が中部イタリアのモンテ゠カシノに設立しました。ここのモットーは、「祈り、働け」

 

生徒:シンプル!

 

しま:有名な三会則も覚えよう。「清貧」「服従」「貞潔」です。言葉の意味はそれぞれ難しいですが、とにかく「祈り、働け」なんです。

 

生徒:大変そうですね…

 

しま:ではここからはヒエラルキーの頂点に立つ、ローマ教皇の話をしていこう!レオ1世は、451年のカルケドン公会議で神性単性論を異端とし、アタナシウス派を正統として再確認した人。そして、フン人の王アッティラに説教をして、撃退をした教皇ですね。

 

生徒:レオ1世が、史上初の教皇ですか?

 

しま:正式な初のローマ教皇はレオ1世[位440~461]と言われるけど、初代ローマ教皇は、イエス十二使徒のうちの1人、ペテロだと言われることもある。このへんは問題文から判断してください!続いて、グレゴリウス1世[位590~604]は、6世紀末にイングランドアタナシウス派を布教し、ヨーロッパでも指折りの大司教となるカンタベリ教会の設置に貢献した人物。マグニフィセントな業績を残した、あのカール大帝は、アタナシウス派を広めるために、わざわざカンタベリから神学者アルクインを招いていましたよね。そして、800年、政治的なバックアップを必要としていた教皇レオ3世[位795~816]は、フランク国王のカール大帝ローマ皇帝の帝冠を授けて、「西ローマ帝国」の復活を宣言しました。このあたりから教皇の力はどんどん強くなっていきます。さらに、962年には、ヨハネス12世[位955~964]によるオットーへの戴冠で、教皇は新たに神聖ローマ帝国を政治的な後ろ盾としました。

 

生徒:全部、フランク王国の流れの中で勉強した範囲ですね!復習大事。

 

しま:そうそう!そして1054年、キリスト教世界はローマ゠カトリック教会と、ギリシア正教会に完全に分裂します。これを東西教会の分裂と言います。で、ここからは新しい範囲!1077年、ローマ教皇神聖ローマ皇帝が叙任権を巡って衝突します(=叙任権闘争)。教会の聖職者の長を任命する権利である叙任権は、ローマ教皇が持っていましたが、神聖ローマ帝国領内では皇帝ハインリヒ4世が保持していた。そこで、ハインリヒ4世から叙任権を取り返そうとしたのが教皇グレゴリウス7世[位1073~1085]。彼は、聖職売買や、妻帯など、戒律を破る聖職者が増える中で、戒律厳守を掲げて修道院運動の中心となったフランスのクリュニー修道院[910年設立]出身の厳格な人物。しかし、ハインリヒ4世は叙任権をなかなか返そうとしない。そこでグレゴリウス7世は必殺「破門ビーム」を繰り出します!

 

生徒:はっ…破門ビーム…!?

 

しま:当時、キリスト教を破門されるということは、「人間以下の家畜」とみなされるくらい致命的なものでした。英語にすると、excommunicationです。もう関わらないということです。ハインリヒ4世は、諸侯をコントロールできなくなってしまうので、謝るしかありません。皇帝が教皇に謝罪するんです。これが有名なカノッサの屈辱[1077年]だ。

 

生徒:ハインリヒ4世にとって、屈辱だったというわけですね。

 

しま:結局、この叙任権闘争は1122年のヴォルムス協約で、聖職叙任権はローマ教皇保有し、俗権(=土地所有権)は神聖ローマ皇帝が持つという形で決着します。さて、11世紀後半になると、セルジューク朝の圧迫でビザンツ帝国が窮地に立たされる。ビザンツ皇帝アレクシオス1世は、教皇に助けを求めた。さて、キョーコは以前あずま君にフラれた過去がありますから、そう簡単には協力しません。ある条件を提示します。キョーコが出した条件とは、ギリシア正教会がローマ゠カトリック教会の支配下に入ることだった。あずま君はこの条件を飲みます(結局、十字軍の失敗で東西教会の統一は実現しなかった)。こうして、1095年のクレルモン宗教会議で、ウルバヌス2世が国王や諸侯へ呼びかけ、十字軍がスタートします!十字軍の話は、また別のところで…。また、11世紀末にはフランスにシトー修道会という修道会も創立されています!