読む世界史

書き残そう、世界の歴史の物語

No.15(西)ノルマン人の活動

しま:今回勉強するのはノルマン人です!彼らは北方ゲルマン人ゲルマン人と言えば375年にフン人に圧迫された西ゴート人が、ドナウ川を越えたのをきっかけに、大移動してローマ領内に侵入してきた民族だったよね。今回勉強するノルマン人は、8世紀~11世紀にかけて大移動をする!つまり彼らは“のろまなゲルマン人”!

 

生徒:のろまなゲルマン…のろ…まん…そっか、だからノルマンっ!

 

しま:いや違うよ!!そんなノルマン人の原住地は、デンマークのあるユトランド半島や、ノルウェースウェーデンのあるスカンディナヴィア半島。ここはしっかり地図で確認しておこうね。

 

生徒:いわゆる、北欧ですね。

 

しま:そ。彼らの暮らしは交易中心。時には、海賊行為をはたらいて生活を維持していた。ちなみに、ヴァイキングって知ってる?

 

生徒:なんて日だ!それたぶんiPhoneじゃないねぇ!

 

しま:お笑い芸人じゃなくて、ヴァイキングってのは、ノルマン人の別名なんだ。

 

生徒:日本語に訳すと“食べ放題”ですか?

 

しま:違うよ!もともとヴァイキングの意味は“入り江の民”。彼らの船は吃水が浅くて浅瀬に入りやすい。そこで彼らは川を上ってきて食べ物を奪い、穀物の種を奪い、船に持ち帰っていった。だから、日本ではヴァイキング=海賊ってイメージが強いのかもね。では、そんなヴァイキングたちの移動をみていこう!まず、原住地にデンマークノルウェースウェーデンを建国する。これがだいたい8~10世紀。そして、862年にはリューリク率いるルーシ人が南下して、ノヴゴロド国を建国する。ちなみにルーシというのは、ノルマン人に対するスラヴ人からみた呼称で、これが現在の「ロシア」の語源になっている。そんなノヴゴロド国が南下して882年にキエフ公国が建国される。

 

生徒:ばっちりです!

 

しま:で!次からがとっても大事だからしっかり地図を見ながら確認しよう!まず911年、ノルマン人の首長ロロが北フランスに侵入した。これに対して西フランク王は、諸侯として認めることで封じ込めようとした。これがノルマンディー公国になる。

 

生徒:今も北フランスにノルマンディーって地名ありますよね。

 

しま:よく知ってるね!この後、このノルマンディー公国から有名な人物が出てくるよ!…っとその前に、ブリテン島の様子を見ておこう。ここは、ゲルマン人のうち、なんという部族がやってきていた?

 

生徒:はい!アングロ゠サクソン人ですよね!?で、七王国ヘプターキー)があった!

 

しま:そうだね。七つの王国があったわけだけど、そのうちのウェセックスという国の王、エグバートによって統一され、イングランド王国になるんだ。829年のこと。ただ、たびたびノルマン人の侵入に悩まされる。9世紀末にはデーン人がやってくるんだけど、これはアルフレッド大王が撃退!!でも、1016年にデーン人の王子クヌートがやってきて、いよいよイングランドを征服する。これがデーン朝!そしてクヌートはデンマーク王となり、ノルウェーも支配して「北海帝国」を築き上げるんだ。ほら、北海を三角形に囲んでいるでしょ?

 

生徒:だから、「北海帝国」なんですね!

 

しま:そういうこと。ただ、デーン朝も長くは続かず、一時アングロ゠サクソン人の王朝が復活する。そして1066年、さっき北フランスにできたノルマンディー公国から、ノルマンディー公ウィリアムがイングランドに侵入してくるんだ!この戦いのことをヘースティングズの戦いと言う。

 

生徒:結果どうなったんですか?

 

しま:ウィリアムが勝利し、ウィリアム1世としてノルマン朝を創始するんだ。これをノルマン゠コンクェストと言う!つまりこの時点で、フランスの諸侯がイングランド王をやってることになる。なんか不思議な感じだよね。

 

生徒:ですね。

 

しま:そして最後に、おまけの両シチリア王国。これは、イスラーム勢力と戦ってローマ教皇からの支持を得たノルマンディー公国の騎士、ルッジェーロ2世が、ナポリシチリア島を領有する形で1130年に建国しました。

 

生徒:ん?ルッジェーロ2世ってもしかして、イスラーム文化で勉強した、イドリーシーに世界地図を書くように依頼したっていう、あのルッジェーロ2世?

 

しま:そうです!

No.14(西)分裂するフランク王国

しま:偉大なるカール大帝の息子、それがルートヴィヒ1世。そのルートヴィヒ1世には子どもがいた。カール大帝の孫ですね。長男がロタール1世、三男がルートヴィヒ2世、四男がシャルル2世。それぞれきちんとフランク王国の土地を相続しました。これが843年のヴェルダン条約です。では、分割相続が行われた後のカロリング朝を見ていくことにしましょう!

 

生徒:はい!まず長男からお願いします!

 

しま:長男が継いだのが中部フランク。ここが一番重要な土地だ。ただ、ロタール1世の死後、メルセン条約で東フランクと西フランクに圧迫されるような形で領土が縮小してしまう。カロリング朝も最も早く875年に途絶えてしまいます。その後も、たびたび東フランクが支配を試みようとちょっかいを出してきます。以上。

 

生徒:あっさり!次は次男!

 

しま:次男が継いだのが東フランクね。こちらも911年にカロリング朝が途絶える。すると、新たにザクセン朝がハインリヒ1世によって創始されます。その2人目の王であるオットー1世がすごかった。レヒフェルトの戦いでアジア系のマジャール人を撃退し、イタリア遠征ではスラヴ人を倒している!これはローマ教皇としては非常に頼もしいですよね!そこで、このオットー1世にあの“例の冠”をかぶせるのです。

 

生徒:かつての西ローマ皇帝位ですね!

 

しま:その通り!それが962年のこと。かぶせた教皇ヨハネス12世。ここに神聖ローマ帝国の誕生です!

 

生徒:あれ?神聖ローマ帝国が解体されるのって、確か1806年のナポレオンのライン同盟結成の時でしたよね?

 

しま:素晴らしい。まさにそれです!最後に、四男が継いだのが西フランク王国。ここが最もカロリング朝が長生きして987年まで。断絶後は、ノルマン人の侵攻を撃退したことで名声をあげていたパリ伯のユーグ゠カペーが即位し、カペー朝を始めます。ただし、この王朝の弱いところは選挙王政だというところ。みんなで王様を決めているから、王様は威張れないんですよ。以上!

歴史総合No.12~ロシアの近代化と南下政策~

しま:今日はとことんロシアです!ツァーリズムと称される皇帝の業績を追っていきましょう。

 

生徒:あれ?今回のテストに出てくる皇帝の名前はアレクサンドル2世だけだって、先生授業で言ってましたよね?

 

しま:え?授業?いや、これが授業だけど?今俺喋ってるじゃん。

 

生徒:ややこしいですね。もういいですよ。どうぞ、お好きに。

 

しま:まず、アレクサンドル1世だ。この人はナポレオン1世のロシア(モスクワ)遠征を撃退したり、神聖同盟を提唱したすごい人。そんな皇帝が急逝したタイミングで、デカブリスト(=十二月党員)の乱が起きた。

 

生徒:デカブリストとは何者ですか?

 

しま:ナポレオンと直接対戦したロシアの青年将校(軍人)たちです。彼らはナポレオン軍と出逢い、フランスの「自由と平等」を肌で感じていた。自由の強さを知っていたんです。皇帝による専制政治ツァーリズム)の打破と農奴解放を目指しましたが、即位直後のニコライ1世により、この乱は鎮圧されてしまう。ところで君はお兄さんがめちゃくちゃかっこよくて優秀だったらどう思う?誇りに思う?…思うかなーーー?言われるよ?

 

「お兄さんはあんなにすごかったのに。」って。

 

生徒:「俺は…俺は兄さんとは違うんだ!!!」と言いたくなりそうですね。

 

しま:そう。それが弟の本音です!

 

しま:アレクサンドル1世の弟のニコライ1世はお兄さんを越えたい。そこで、軍隊にバシャバシャお金をかけます。で、1853年に満を持してクリミア戦争に突入。戦争開始の口実は?

 

生徒:ギリシア正教徒の保護!

 

しま:本音は?

 

生徒:黒海から地中海へ抜ける通商路の確保!

 

しま:完璧だ。この戦争、ロシアは全く勝てなかった…。セヴァストーポリ要塞という、ロシア最大の軍事拠点もあっという間に陥落です。これがあまりにショックで…ニコライ1世死んじゃうんだよ。自殺だと言われてる。次の皇帝は戦争の敗北が決定している中で帝位につく。それが今日の主役、アレクサンドル2世です!

 

生徒:おっ!てことはここからがいよいよ本題ですね!

 

しま:クリミア戦争の結果はロシアの大敗。そりゃ勝てないですよ。だって産業革命やってないんだもん。工業力に差があり過ぎ。物資の輸送も馬車対鉄道。さぁ、復習です。産業革命をやる上で必要な要素はなんだった?

 

生徒:資本と市場と労働力!

 

しま:そうだね。当時のロシアは世界で3番目に人口が多かった。でも、その8割が農奴(農業奴隷)なんです。彼らは土地に縛られていてる。彼らが労働力にならなければ、ロシアの近代化はほど遠い!

 

船を曳く農奴

生徒:じゃあ、とりあえず農奴の解放ですね!

 

しま:そこでアレクサンドル2世は、1861年に「農奴解放令」を発布した。

 

農奴解放令

 

しま:しかしこれはあくまでも上からの“人的解放”だった。身分は奴隷じゃなくなったよ。でも、生きていくためには住む土地が無いといけない。その土地は、地主から地代の何十倍ものお金を払って買い取らなきゃいけない。けど、そんなお金を持っていたらそもそも農奴なんかやって無いよ。結局、この改革は不徹底に終わるんだ。

 

生徒:このままじゃロシアはダメだってわかってる人も居たわけですよね?

 

しま:もちろん。都市知識人たちです!

 

生徒:インテリ!カッコイイ!

 

しま:ロシア語でインテリゲンツィアと呼ばれる彼らの一部が行動を起こした。それがナロードニキ運動。よし、ちょっとやってみよう。俺はインテリゲンツィアだ。

 

生徒:いや、先生、自分でインテリっていうのはきついです。

 

しま:例えだから!!!わかりやすくするためにやってんの!はい、俺がインテリ!

 

 

コンコン…(ノックする音)

 

ガチャ…(扉がひらく音)

 

生徒’(農民):「だ…だれですか?」

 

しま(インテリ):「あ、どうも、私はインテリです!ほら、武器持って!レッツ、革命!」

 

生徒(農民):(えっ、何この人…)

 

しま:戸惑うよな!しかも当時の農民の識字率、たったの20%ですよ。いきなり革命なんて言われても「ハイ?」って感じで、伝わらないですよ!普通に逮捕されます。この運動は失敗だね。

 

ナロードニキの逮捕

 

生徒:ん、待ってください。インテリゲンツイアとナロードニキって違うんですか??

 

しま:インテリゲンツイアは大きな枠組みで、都市知識人のことを指す。ナロードニキは、日本語に訳すと”人民主義者”で、“ヴ=ナロード”(=「人民の中へ」)をスローガンに掲げて、農村に入っていった活動家たちがナロードニキです。

 

生徒:そういうことか!

 

しま:さて、頭が良い人ほど、挫折すると変な方向に走りがち。それがアナーキズム(=無政府主義)…政府なんていらないんだ!という主張だったり、ニヒリズム(=虚無主義)…世の中なんていらないんだ!という主張だったり。…それがさらに過激になると…テロリズムだ!!!

 

生徒:暴力や暗殺によって政治的主張を通そうとするわけですね。

 

しま:その通り。結局、アレクサンドル2世はテロリストによって1881年に暗殺されてしまいました。

 

アレクサンドル2世の暗殺

生徒:そういえば、南下政策ってどうなったんでしたっけ?なんていうか、ロシアって海にこだわり過ぎじゃないです?僕から言わせてもらうと、陸で行った方がいいと思うんですけど。

 

しま:さすが!ロシアもクリミア戦争の敗北から20年の間に同じようなことを考えました。1877年、バルカン半島スラヴ人の反乱を利用して、ロシアはオスマン帝国とタイマン勝負に打って出た!それがロシア゠トルコ(露土)戦争だ!まだ、アレクサンドル2世[在位1855~1881]が暗殺される前だね!

 

生徒:結果は!?

 

しま:ロシアの勝利。1878年、サン゠ステファノ条約の締結です。これにより、ルーマニアセルビア・モンテネグロの独立が承認され、ブルガリア自治公国が成立した。地図で確認してみよう。

 

サン゠ステファノ条約

 

しま:まず、ロシアはルーマニアを通る。そしてブルガリアを通る…どっちもロシアのおかげでオスマン帝国から独立したり、自治を獲得しているわけだから「ロシアさん、どうぞ通ってください。」ですよ!ほら、地中海(エーゲ海)に辿り着いちゃった

 

生徒:本当だ!南下政策成功だ!ばんざーい!

 

ガシッ!(手をつかむ音)

 

生徒:ひぃ!

 

しま:ところが、これを黙って見てない国があった。イギリスやオーストリアだ。特にオーストリアは、ロシアのパン゠スラヴ主義と対立する、パン゠ゲルマン主義なので、スラヴ人バルカン半島で勢力を拡大させていくことに歯止めをかけたいと思っていた。このままいけばイギリス&オーストリアvsロシアの戦争が起こりますよ。そんな時…自ら「誠実な仲介人」と称する人物が登場してきた!

 

生徒:怪しい!自分で誠実とか言っちゃう男が一番怪しい!!!

 

しま:それが、ビスマルクだ!彼は、できたばかりのドイツ帝国の安定のため周辺諸国のもめごとに巻き込まれるのを避けたかった。そこで1878年にベルリン会議を主催し、ベルリン条約を締結します。その内容は、ブルガリアの領土縮小、イギリスのキプロス島獲得、オーストリアボスニア・ヘルツェゴヴィナ管理権獲得だった。

 

生徒:ほら、やっぱりロシアに不利じゃないですか!誠実じゃない!

 

しま:そうなんだよね。ブルガリアの領土が縮小されたことで、ロシアは海までたどり着けなくなってしまいます。これで南下政策は挫折。で、暗殺されたアレクサンドル2世の後を継いだ息子のアレクサンドル3世は、シベリア鉄道を着工した。南下政策に挫折したロシアは、東方への進出を企てたわけです!東へ東へ…中国を通り朝鮮半島を通り…その先にあるのは…

 

生徒:JAPAN!

 

しま:そういうこと。そして、ニコライ2世の時に、日露戦争がはじまってしまうわけです。以上!ロシアはここまで。

歴史総合No.11~後発国による「上からの近代化」~

しま:さて、最初のテーマはロシアの南下政策です。

 

生徒:南下?先生、なんでロシアは南へ行きたがるんですか?

 

しま:ロシアは冬になると、凍てつく寒さでほとんど港が凍っちゃうんですよ。だから不凍港を獲得すべく南下したい!

 

生徒:ってことは、この黒海からエーゲ海へ抜ける2か所の狭~い海峡を通らなくちゃいけない…ってことになりますよね!

クリミア戦争

 

しま:そういうこと!今のイスタンブルがある方がボスフォラス海峡で、南下するとあるのがダーダネルス海峡!当時この海峡はオスマン帝国支配下にありました。

 

生徒:ということは、ロシアとオスマン帝国との戦争に…

 

しま:なるんだけど、ロシアが進出してくると邪魔になるから南下を阻止しようとするイギリスやフランス、さらに国際的な地位を高めたいサルデーニャもここに参加してくるからややこしいんだ。

 

生徒:複雑なんですね。

 

しま:とにかく戦争の繰り返しです。

 

生徒:なるほど。

 

しま:さて、クリミア戦争の要因について話しましょう。フランスのナポレオン3世が聖地イェルサレムの管理権を獲得しました。ナポレオン3世という人は、熱心なカトリック教徒。しかし、ロシアには、ギリシア正教徒が多かった。つまり、フランスの管理下だと、ギリシア正教徒がいじめられてしまう…かも…!?という口実から、1853年、クリミア戦争開始!

 

生徒:なんだか強引ですね!

 

しま:口実ですから。しかし、このクリミア戦争でロシアは惨敗!1856年のパリ条約で黒海の中立化が決められるんだ。ロシアは自らの後進性を痛感することになる…。

 

生徒:うーん…なんていうか、ロシアって海にこだわり過ぎじゃないですか?

 

しま:とにかくもうロシアの心は傷だらけですよ。ランプの貴婦人ナイティンゲールに慰めてもらいましょう。

 

ナイティンゲール

 

生徒:…ん?ナイティンゲール…?何した人でしたっけ?

 

しま:え!クリミア戦争中、最前線において敵・味方関係なく看護にあたったイギリスの看護師さんでしょ!覚えておいて!

 

生徒:プリントに書き込んでおきます!

 

しま:では、いったんロシアはおいといて、イタリアの統一をみていきましょう。最初に活動を始めたのは秘密結社カルボナリ。オーストリアによるイタリア人支配に抵抗してイタリアの統一を目指しますが、失敗。

 

生徒:カルボナーラの語源になったカルボナリですね!

 

しま:その後、イタリアにおける最初の政党ともされる青年イタリアが、マッツィーニを中心に結成され、統一を目指しますが、これもやはりうまくはいかなかった。

 

生徒:もっともっと強い指導者が必要そうですね。

 

しま:さぁ、あらためて地図を見るとわかるように当時のイタリアはバラバラ状態です。

 

統一前のイタリア

しま:例えば、北イタリアのロンバルディアヴェネツィアは、1815年のウィーン議定書でオーストリアが持ってった。そして、中部イタリアや、ローマ教皇領という場所があるけど、ここはフランスが守っている。フランス軍が駐屯しているってことね。南イタリアにはスペイン系のブルボン朝です。こういうところを倒していかないと、イタリア統一とはいかないんですよ。

 

生徒:でも、それをやってのけるんですよね?

 

しま:そういうこと。その主人公こそ、サルデーニャ王国です!

 

生徒:ふむふむ。あ、サルデーニャ王国って2か所に分かれてるんですね!

 

しま:そう!飛び地!国王の名前はヴィットーリオ=エマヌエーレ2世。すごいのはオーラだ。実際に国を動かしていたのは首相のカヴール。この人、とにかくすごいんです。では、北イタリアからスタートしていきましょう。まず、ロンバルディアヴェネツィアを取りたい。そのためには、オーストリアに勝たなきゃいけないけど、単独では無理。そこで、ナポレオン3世率いるフランス軍の力を借りようとするんです。だからクリミア戦争に参戦したんですよ。ただし、タダで協力してもらうというわけにはいかなので、サヴォイアとニースという場所をフランスにあげることを交換条件にした。ここはフランス人が多く住んでるんです。そして1859年、イタリア統一戦争開戦!サルデーニャ&フランス連合軍は、オーストリアを破ります!ビックリするくらいサルデーニャ王国は強かった。もしこのまま領土を拡大していったら…?

 

生徒:…はっ!その先にはフランス軍が駐屯している中部イタリアやローマ教皇領がある!

 

しま:そう!バックに居るのはフランスですよ!え?じゃあフランスは自分たちと戦うんですか!?というわけで、フランスはサルデーニャ王国の支援を途中でやめちゃう。こうなってしまうと、サルデーニャオーストリアに勝つのは厳しい。結局、ロンバルディアを取ったところで戦争は中断です。もう、カヴールはめちゃくちゃ怒って、ナポレオン3世に会いに行くんですよ!ただし、ナポレオン3世は決してカヴールを殴ったりはできない。もしそんなことしたら、サヴォイアとニースに住んでるフランス人が報復で殺されちゃいますからね。

 

生徒:ナポレオン3世は国民投票で当選した人ですから、人気は落とせないですよね。

 

しま:そう。だからやっぱりサヴォイアとニースはもらわないと。と、いうわけで、フランスが持っていた中部イタリアをサルデーニャにあげる代わりに、サヴォイアとニースは無事にフランスへと渡りました。1860年のことです。

 

生徒:なるほど。

 

しま:さて、ここで全く違う人が動き出します。青年イタリアのガリバルディです。彼の率いる軍隊は1000人規模だったので“千人隊”と呼ばれます。赤いシャツを着ていたので赤シャツ隊とも言う。怒涛の勢いで両シチリア王国征服です。

 

 

ガルバルディ

 

しま:このまま行けば南下してきているサルデーニャとケンカになっちゃいますね!

 

生徒:どうしてですか?どっちもイタリアの統一を目指している同志じゃないんですか?

 

しま:目指している政治体制が違うんだよ。今、下から動いているのは共和政を目指すガリバルディ。一方、上から来てるのは王政を目指すサルデーニャ王国です。そこで、カヴールは、ガリバルディをヴィットーリオに会わせた。ガリバルディは、完全にヴィットーリオに惚れこんじゃうんです。「この王なら国を任せても問題ない!」って言って、両シチリア王国の地を献上しちゃうんです!

 

 

生徒:なんと!お人よし!

 

しま:こうして、1861年にイタリア王国成立。首都はトリノ。ただし、問題は残されています。実はまだこの段階で塗られていない、南チロルとトリエステという場所。ここにはイタリア人が多く住んでるんですけど、オーストリアの領土で、まだ回収できていない。そこを「未回収のイタリア」と言います。ここは第一次世界大戦が終わるまで回収できません。

 

生徒:チロル…?チロルって、あのチロルチョコのチロルですか?

 

しま:そうらしいですよ!他にも工業地域主導の国家統一によって北部は豊かになっているけど、農業地域の南部は貧しかったりと、これは今のイタリアにも残された問題です。

 

生徒:次にドイツお願いします!

 

しま:1815年のウィーン議定書により、「ドイツ連邦」が成立しました。35の君主国と4つの自由市によって構成されるドイツ連邦に、統一国家としての実態は、ありません。事実上の分裂状態です。

 

ドイツ連邦

生徒:…ってことは、国境を通過するたびに関税がかかる…ってことですか?

 

しま:そういうこと。これ、めっちゃ不便。じゃあさっさと一個にしちゃえばいいじゃん!って思うかもしれないけど…そしたら1人を除いて、その他の王はみーんなリストラされちゃうわけだよね。そりゃ反対しますよ。ただし、”ある国”と”ある国”だけは王になれる可能性が高いから統一をしたいと言っている。どこだか分かるかな?

 

生徒:分かった!プロイセンオーストリアだ!

 

しま:その通り!まず、経済的な統一から進むんだけど、その中心となったのはプロイセンだった。これはプロイセンが飛び地になっているからだ。1834年、ドイツ関税同盟の結成です。これに加わった国同士で関税をなくして、自由貿易による経済発展を目指しました。

 

生徒:なるほど!

 

しま:政治面では、1848年のフランクフルト国民議会。これ、授業では話せなかったので、ここで説明します。さて、当時はオーストリアがドイツ連邦の中でNo.1で、ハンガリーまで併せ持っていた。その、オーストリアを中心としたドイツの統一…それが大ドイツ主義です!そうではなくて、他民族帝国のオーストリアをはじきだした状態で、プロイセン中心での統一を目指す、これが小ドイツ主義です。議論の結果、勝ったのは小ドイツ主義。そしたら革命派が皇帝の冠をプロイセンに持ってきたんだよ。これ、かぶってください!って。それをプロイセン王は

 

「こんなもんいらねぇ!」

 

と拒否します。

 

生徒:え!?王になりたかったんじゃないの??

 

しま:だってこの冠、学生や労働者とかの革命派が持ってきたんだよ!?こんなのをかぶったら今後言いなりになるしか無いじゃないですか!だから言ったよ。

 

「あなたたちからはもらえない。でも、自分で勝ち取るから、その時は僕のこと支持してくれよ。」

 

って。

 

生徒:カッコイイ。

 

しま:さて、イタリア王国が成立したのと同じ1861年。新しいプロイセン国王が即位します。ヴィルヘルム1世です。いよいよドイツ統一に乗り出します!サルデーニャのヴィットーリオ=エマヌエーレ2世がカヴールを首相にしたのと同じように、ヴィルヘルム1世が、ドイツ統一のために首相に任命したのがビスマスク。19世紀後半のヨーロッパを代表する大政治家です。

 

生徒:きいたことある!

 

しま:ビスマルクと言えば「鉄血政策」。鉄は武器、血は兵士。要するに、軍事力を強化して、戦争によってドイツを統一するぞ!と宣言したわけだ。そして、着々と軍備を整えていく…。もちろん、戦争したい相手はオーストリアだ。ライバルのオーストリアに勝てばいいんだから。

 

生徒:1866年、プロイセンオーストリア(普墺)戦争ですね

 

しま:結果はプロイセンの勝利!1867年に「北ドイツ連邦」誕生です。どうして“北”ドイツなのかと言えば、まだ南のカトリック4国が入っていないからですね。

 

生徒:負けたオーストリアはどうなったんですか?

 

しま:負けて弱ってる隙にハンガリーに独立されたらオーストリアは領土が半減!これは本気でやばい。だから先手を打ちました。

 

「お前らハンガリー自治を与えてやるよ。だから暴れるな。」って。

 

生徒:なるほど。独立される前に自治を与える…妥協ですね。

 

しま:そういうこと。まさに妥協。ドイツ語で「アウスグライヒ」と言います。これにより、オーストリアは1867年に「オーストリアハンガリー(二重)帝国」と名前を変えました。ハンガリーの王はオーストリア皇帝が兼ね、その下で二国がそれぞれ別な政府と国会を持つという形です。さて、南ドイツのカトリック4国ですが、ここは潰されない自信があった。後ろに居るフランス皇帝ナポレオン3世が、熱心なカトリック教徒だからです。ビスマルクに攻められたって、きっと助けにきてくれる!と思っている。

 

生徒:じゃあビスマルクは、フランスを攻めちゃえば話は早いですね。

 

しま:でも、フランスと戦争するには理由が必要です。さて、時のスペインはブルボン家。フランスの親戚だね。そのスペイン王が革命により亡命してしまった。そして、プロイセンの王家であるホーエンツォレルン家の国王がスペインに誕生しそうになった。もし、そうなれば、フランスは東西から挟まれる形になる。そこでフランスはお願いするんだ。これが通って、とりあえずは平和的解決した…かに思われた。

 

生徒:え!?これで終わらないんですか!?

 

しま:プロイセン王ヴィルヘルム1世がエムスという温泉地で静養してたんです。そこへフランスの大使が向かった。

 

「よかったら今後ずっと、スペイン王は、ホーエンツォレルン家から出さないって約束してもらえませんか?」

 

って。ヴィルヘルム1世は、「未来のことまでは私には決められないよ」と返事をした。そして、このことを首相のビスマルクに電報で報告するんです。

 

生徒:ふむふむ。それで?

 

しま:ビスマルクは言ったよ。

 

「了解。じゃあ今の話を書き換えて新聞に載せちゃおう。王は無理やり、強引に、フランスの大使から約束を強要された・・・ってね。」

 

生徒:えっ!そこまではされてないじゃないですか!!!

 

しま:そうなの!改ざんですよ!これを「エムス電報事件」と言う。これにはドイツ国民もフランス国民もプンプンです!ついにナポレオン3世は、ビスマルクの挑発に乗り、1870年、フランスとドイツの戦争が始まります。

 

生徒:プロイセン=フランス(普仏)戦争ですね!

 

しま:戦争は、ドイツ軍の連戦連勝。焦ったナポレオン3世は、自ら指揮を執るために前線に出かけた。そしたらセダンという場所でドイツ軍に包囲されて、8万のフランス軍とともに捕虜になってしまった。そのままドイツ軍は進軍を続け、パリ包囲です。そんな最中、1871年1月、ドイツ帝国の成立が宣言されました。が、なんとその戴冠式が行われたのが、あのヴェルサイユ宮殿

 

ドイツ帝国の成立

 

生徒:えっ!?ヴェルサイユ宮殿って言ったら、フランスのブルボン家の栄光の象徴じゃないですか!そこでドイツが戴冠式を行うだなんて…フランス人にとって、この上のない侮辱!!!

 

しま:そして2月。講和条約で、ドイツはフランスから多額の賠償金と、アルザス、ロレーヌという2つの地方を獲得しました。アルザスとロレーヌは地下資源の宝庫。これはフランス人にとってショックがでかかった。

 

生徒:ドイツとフランスの関係は最悪ですね…。

 

しま:だからこの後、フランスに報復されないように、ビスマルクはフランスの孤立化を進めるんだ。その一つが三国同盟です。

 

生徒:ドイツ、オーストリア、イタリアの同盟ですよね。

 

しま:ですね。さぁ、ドイツ帝国の性格を簡単に見て終わりにしましょう!ビスマルク憲法に規定された政治制度は立憲君主政。だけど、皇帝の権限が大きくて、議会の権限は小さいです。

 

生徒:ビスマルクはどんな政策をとったんですか?

 

しま:ビスマルクの課題は、内政の整備。3つ覚えてください!社会主義鎮圧法、社会保障制度、保護貿易政策です。社会主義鎮圧法は1878年に制定された法律。社会政策は、具体的には、災害保険、疾病保険などなど。貧しい社会主義者が暴れないように、うまくバランスをとっているわけです。

 

生徒:いわゆる、アメとムチってやつですね。

 

しま:最後に保護貿易政策。イギリスから安い品物が入ってくるので、それをシャットアウトして、国内産業の育成をはかりました!

歴史総合No.10~イギリスの繁栄と国民国家の拡大~

生徒:次はいよいよイギリス史ですね!

 

しま:このブログを読んでる女性は、だいたい16~17才くらいですかねー。今日出てくるヴィクトリア女王[位1837~1901]って、18才で即位して、それから64年間「ヴィクトリア時代」と呼ばれるイギリスの繁栄期を演出するんですよ。

 

ヴィクトリア女王

 

しま:この時代は政治がすっごく安定している。保守党と自由党の二大政党制です。保守党は、強いイギリスを守りたい!戦争に行って勝たなきゃいけない!こういうのを「大英国主義」と言います。自由党は、貧しい人を助けてあげたい、内政を充実させたい!こういうのを「小英国主義」と言います。保守党はディズレーリ、自由党グラッドストンが代表的な政治家。世界史選択の人は知っておきましょう。

 

生徒:なるほど。イギリス繁栄の象徴であるヴィクトリア女王と、その時代を支えた二大政党制か~。

 

しま:議会制民主主義の誕生の時代ですね。さて、イギリスは、世界のどこよりも早く産業革命を達成しました。これにより、”世界の工場”と呼ばれるイギリスを中心とした世界的な分業体制が成立したわけです。これを近代世界システムという。

 

生徒:イギリスが圧倒的な工業力と軍事力を手に入れたわけですね!

 

しま:そう!イギリスが他国を圧倒する国力を有したことで平和が保たれたんだ。これをイギリスの平和、パクス゠ブリタニカと呼ぶ!

 

生徒:産業革命が進むイギリスをはじめとした欧米諸国に対し、清や西アジアオスマン帝国などは周辺の従属国として近代世界システムに組み込まれていったのですね。

 

しま:インドもそうですよ!インドはイギリスの植民地となり、綿花を輸出し、綿製品を大量に輸入している。さっき出てきたヴィクトリア女王インド帝国の皇帝を兼ねています。まさにこの関係性こそが近代世界システムだ。それがわかりやすく表れたのが三角貿易だよ。

 

生徒:先生!三角貿易ってなんですか?

 

しま:文章で説明するのは難しいから、こちらのショート動画をご覧ください!

 

youtu.be

 

しま:では、再びイギリス国内に話を戻しましょう。19世紀イギリスのキーワードは自由だ。例えば、自由貿易。国が輸出入に関して関税や制限などの干渉を行わない貿易に切り替わったのが19世紀。

 

生徒:1833年から自由化が進んでいますね!

 

しま:そう。年代にはぜひ注目して欲しい!おそらく前の年に何かあったんですよ。つまり1832年…。

 

生徒:分かった!第1回選挙法改正!

 

しま:よく気づいたね!ここで選挙権をもらったのが産業資本家たち。だから翌年、一気にいろいろと良い法律が通るんです。では、プリントを上から順番に見ていこう。中国との貿易を独占していた東インド会社は、1813年にはインド貿易独占権が廃止され、1833年には中国貿易独占権が廃止されます。

 

生徒:良いですねー。自由ですねー。

 

しま:1815年に制定されていた穀物法は、自由を妨げる良くない法律です。大陸からの安価な輸入穀物に高関税をかけて、売れないようにするというもの。さて、みんなはパンと言えばどこの国を連想する!?

 

生徒:フランス!フランスパン!

 

しま:じゃあもし、イギリスでフランスのパンばっかりが売れちゃったら…誰が困る?

 

生徒:パン屋!

 

しま:いや、パン屋も困るんだけど、パン屋に小麦をおろしている地主が困るんです。地主って…イコール国会議員ですからね。自分を守るためにこういう法律を作っていたんです。

 

生徒:なるほど!でも、安くて美味しいものが食べたいです!

 

しま:だよね。それで反穀物法同盟という団体が結成され、1846年に穀物法を廃止させます!そして1849年には航海法も廃止されています。

 

生徒:これで終わりですか!?

 

しま:あとは、さっき少し触れたけど選挙法改正だね!当時のイギリスの選挙区って、150年も前の選挙区だったんですよ。マンチェスターには人口が10万人も居たのに、150年前には町が無かったから代表は0のまま。逆に、すごく大きな町だったけど、大雨で湖に沈んじゃった町が未だに代表2とかなってた。

 

生徒:カッパが出馬するんですか?

 

しま:しないよ!ボートで湖の中央に行くんです。それで昔の住人が集まって投票する。

 

生徒:腐敗選挙区じゃないですか!

 

しま:そうなんだよ!それが廃止されたのも1832年。しかし、まだ労働者には選挙権がない。「どうして、俺たちは貰えないんだ!」って労働者たちが人民憲章を掲げて選挙権要求運動をするんです。これをチャーティスト運動と言います!そのあと、1867年には都市労働者に、1884年には鉱山や農村労働者に選挙権が与えられたんだ。

 

生徒:ほかにも覚えることはありますか?

 

しま:ロンドンで第1回万国博覧会が開催されたことかな?

クリスタルパレス水晶宮

 

しま:会場となったクリスタルパレスは鉄骨に全面ガラス張り!プレハブ建築でつくられたんだよ。プレハブってきくとなんだかすごく頼りなさそうだけど、 「建物の部品を集めて、ある程度までできあがったものを、短時間に組み立てる」という画期的な建築方法だったんだ。

 

歴史総合No.9~大西洋をこえて広がった革命~

しま:さて、ナポレオンがライプツィヒの戦い(=諸国民戦争)に負け、”エルバへさらば”したところで、ウィーン会議が開かれました。1814年です。この会議の目的は、フランス革命ナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパの秩序を回復すること!

生徒:ウィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!!

しま:…会議の参加国は、オスマン帝国を除く全ヨーロッパの君主・政治家たち。議長はオーストリアの外相メッテルニヒです。この人は自由とか平等とが大嫌いな人。さて、ここで問題です!この会議の参加国の中で一番居心地が悪いのはどこの国でしょう!?

生徒:えっと…この会議の原因を作った、フランスですか?

しま:正解!ヨーロッパを混乱させたのはフランスですから、周りから「お前のせいだ!」と言われてしまえば、「そうちゃむ…。」と言うしか無いですよね。領土や賠償金を取られる大ピンチです。そこで登場したのがフランス外相タレーラン!彼は起死回生の理屈を持ち出した。それが「正統主義」という考え方です!

生徒:ん?正統…?どういう考えです?

しま:「“フランス革命前の主権と領土”こそ正統だ!」と言うわけです。つまり、すべてを革命の前の状態に戻しませんか!?と。

生徒:…はっ!そうすれば領土を失うことも無ければ賠償金を払う必要もないですもんね!

しま:その通り。悪いのは”フランス”ではなくて”革命”なんだ、というわけです。結局この原則が受け入れられることになりる。ただ、そっくりそのまま元通りにはできませんから、勢力均衡の原則のもと、領土の移動や体制の変更が行われます。まぁ結局は、ナポレオン戦争で勝った国が得をすることになるんです。

生徒:でも、ヨーロッパ全土から代表が集まっていたんじゃ、お互いの利害がぶつかり合って、なかなか話が進まないんじゃないですか?

しま:そうなんだよ。なかなか会議が進まない。進まないんだけど、集まっているのは各国の貴族階級ばかりだから、夜になったらパーリナイ。華やかな舞踏会が開かれ、毎晩踊ってるんです。だから言われたよ、「会議は踊る、されど進まず」ってね。

会議は踊る、されど進まず


生徒:なるほど!それがこの風刺画なんですね!

しま:ダンシングしてるうちにナポレオンがエルバ島から脱出しちゃって…はよせな!ということで、ようやく1815年、ウィーン議定書締結です。

生徒:またフランスに王様が戻って来たんですね。ルイ16世!

 

しま:そうそう。「いやぁマジでギロチンって本当に一瞬なんすね」…ってバカ!ルイ16世は死んじゃってるから弟のルイ18世ね!

 

生徒:そっか。


しま:ちなみにドイツには、35の君主国と4の自由市から構成されるドイツ連邦が結成されます。その盟主がオーストリア!このへんはNo.11とかかわってきます。プリントではこの後ラテンアメリカの話になるけど、フランスの話を先にしちゃおう!

 

生徒:先生!ドラクロワの絵ってかっこいいですよね。一番好きなのは、「民衆を導く自由の女神」という作品です。たぶん先生は知らないと思いますけど、すごい素敵な絵ですよ。これ。

 

民衆を導く自由の女神

 

しま:もちろん知ってますし、教科書にも載ってる彼の代表作です。これは、1830年に起きたフランスの七月革命を題材とした作品なんです。何かの映画の一場面に似てると思いませんか?ほら、トリコロールを掲げて、民衆が立ち上がっている感じ!

 

生徒:わかった!レだ!レ!

 

しま:たぶん正解。2012年に映画も大ヒットした「レ・ミゼラブル」ですね。これがちょうどこの頃のフランスのお話で、もともとは、<ヴィクトル=ユーゴー>という人の小説。さて、ここからはそんな七月革命の勉強です!さぁ…復習。ウィーン議定書によって、フランスには何朝が復活しましたか?

 

生徒:そんなの耳ふさいでても答えられますよ!………えっと…何て言いました??

 

しま:耳ふさぐなよ!ウィーン議定書によって、フランスとスペインと両シチリア王国に復活した王朝はなーに??

 

生徒:はい!ブルボン朝

 

しま:正解。ルイ16世の弟のルイ18世が即位しました。この人がまた頑固な人で…極端な制限選挙を実施した結果、有権者はなんとたったの0.3%になります!

 

生徒:そんなの、民衆が黙ってない!

 

しま:ルイ18世が病気で亡くなると、弟のシャルル10世が国王として即位するんだけど…これがさらにひどかった!もはやアンシャン=レジームへの逆戻りと言わんばかり!

 

生徒:まーたあのピラミッドですか!?なんのための革命だったんですか!こうなりゃもう一回革命やるしかないですね……って、あれ…先生、僕すごいことに気づいちゃったかもしれません。

 

しま:なんですか?

 

生徒:今から起こる七月革命と…その後に起こる二月革命って、この間まで勉強していた1789年に始まるフランス革命をただゆっくり繰り返しているだけじゃないですか?

 

しま:鋭すぎぃ!そうなんです!リセットして、スロー再生している…そんなイメージ!さて、シャルル10世は民衆を黙らせるために七月勅令を出します。言論統制!選挙法改悪!良いからお前ら民衆は黙ってろ!って感じの内容ですね。

 

生徒:でも黙ってるはずが無い!だから立ち上がる…それが、七月革命だ!

 

しま:その通り!この革命は、たった三日間で決着が付いたので「栄光の三日間」と呼ばれます。シャルル10世は亡命し、新たに親戚のオルレアン家の王ルイ=フィリップが即位して、七月王政スタートです!ところで、きみ、小石を池に投げ入れてくれる? 

 

生徒:いや、ここ教室だと思ってましたwなんで中庭なんすか。まぁいいや、小石…小石…小石無いです。

 

しま:そう。じゃあ小銭にする?小銭持ってるよな?

 

生徒:すいません、小石ありました。えいっ

 

(ポチャーン…ふわわわゎん)

 

しま:どう?

 

生徒:波紋が広がりましたね

 

しま:そう!まさにそこ!!!今、投げ入れた小石がフランスです!フランスで七月革命が起こると、その影響が波紋のようにヨーロッパ全体へと広がっていく…。まさに今見た感じ!

 

生徒:なるほど!

 

しま:例えば、イタリアではカルボナリが革命運動を起こすけど失敗。新たに青年イタリアという組織が結成されたり。あと、これもまた後で詳しく話しますが、1832年にイギリスで第1回選挙法改正が行われるのも、この七月革命の影響です。

 

生徒:なるほど。

 

しま:さて、フランスでは1830年に起きた七月革命で新たにルイ=フィリップを国王とした、”オルレアン朝七月王政”が誕生しました!この人の自称は「市民の王」。みんなから人気があると思ってる。でも実際は「株屋の王」。お金持ちのためにしか政治を行わない!と批判されているのです。

 

生徒:それで、こんな風刺画を描かれてしまっているわけですね。

梨王<ルイ゠フィリップ>


しま:選挙権を持っている人はわずか1%。でも、考えてください。フランスでも産業革命が起こって、産業資本家や労働者が力を付けてきてるわけですよ。それなのに有権者1%はひどい!ってことで、労働者は選挙権要求運動を起こします。

 

生徒:選挙権!選挙権!!選挙権!!!

 

しま:そこへ、<ギゾー>首相が登場してきて一言、こう言うわけです。

 

「なに?きみたちそんなに選挙権が欲しいの?」

 

生徒:選挙権!選挙権!!選挙権!!!

 

「あーそう。そんなに選挙権が欲しいんなら…金持ちになりたまえ。じゃ。」

 

生徒:ムカーーー!!!

 

しま:でしょ!?ムカつくでしょ!?この民衆の怒りは、パリでの選挙権要求運動…いわゆる改革宴会が武力で鎮圧されたところでピークに達します。

 

生徒:二月革命ですね!

 

しま:その通り!1848年に二月革命が起こると国王ルイ=フィリップは亡命。国王が居なくなったので、これより第二共和政となります。臨時政府には、共和派のラマルティーヌや、社会主義者のルイ=ブランなどが参加します。すごいですよ、何しろジャコバン派以来の男性普通選挙ですから。ルイ=ブランは、失業者対策として国立作業場という施設を作ったりしている!

 

生徒:もうパリの街はルイ=ブラン一色ですね!

 

ルイ=ブラン!ルイ=ブラン!ルイ=ブラン!

 

しま:そんな感じ!で、いよいよ4月、四月普通選挙が行われ…開票してみたら、はい!!!ルイ=ブラン落選!!!

 

生徒:ホワィッ!!!

 

しま:簡単なことです。フランスはパリだけじゃないんですよ。確かにパリは労働者がたくさん居る。でもフランス全体は農業国ですからね。農民の方が多いわけよ。もし、ルイ=ブランが勝って社会主義になっちゃったら?農民の土地はどうなっちゃう?

 

生徒:国のものになっちゃう…。そっか…。それで保守化しちゃったのか…

 

しま:そういうこと。ただ、これには労働者は不満ですよ。さっきの国立作業場が6月に閉鎖されたことをきっかけに、暴れだします。明らかに社会が混乱している。ほら、フランス総裁政府の時にクーデタが多発した時みたいに…。

 

生徒:あの時は確か、ナポレオン=ボナパルトが登場して、混乱を沈めたんでしたよね。…はっ!まさか!!!

 

しま:まさか??

 

生徒:ナポレオン=ボナパルトセントヘレナ島より脱出ですか!?

 

しま:いや、とっくに亡くなってます!ナポレオンの弟の息子…つまり、ナポレオンの甥にあたる、ルイ=ナポレオンがここで登場してくるんです!!!

 

生徒:知名度がすごいから、名前だけで当選しちゃいそうですね!

 

しま:すごいですよ。軍人はもちろん、農民、労働者、あらゆる層の支持を集めて大統領に就任しちゃう。そして国民投票で皇帝ナポレオン3世となり、第二帝政開始です!でも、プロイセン゠フランス戦争に負けちゃって人気急降下…と、このへんの話はNo.11でしましょう!

 

生徒:先生!1848年に戻ってください!

 

しま:そうでした。さて、ドイツで三月革命が起こります。オーストリアの首都ウィーンと、プロイセンの首都ベルリンですね。ウィーンでの三月革命により、メッテルニヒはイギリスへ亡命する。一応これでウィーン体制は崩壊!

 

生徒:なるほど。ウィーン会議の主催者が居なくなっちゃったんですもんね。

 

しま:三月革命など、1848年に起こった二月革命の影響による自由主義国民主義の高まりには名前が付いています。それが「諸国民の春」!

 

生徒:国民意識が芽吹いたわけですね!

 

しま:では、最後にラテンアメリカを簡単に整理しましょう!最初に独立したのはハイチですが、先生はこれを「ハイチ、3つの特別」としつこく話しています!

 

トゥサン゠ルーヴェルテュール

 

生徒:3つの特別…ですか?

 

しま:まず、1つ目…1804年という早い時期(1806年以前)に独立したこと。2つ目…フランスから独立したこと。3つ目…黒人共和国だということ。以上3つです。

 

生徒:なるほど、つまりハイチ以外のラテンアメリカ諸国はそうじゃない…!ということか!

 

しま:そういうこと。独立の背景として、ナポレオンが1806年に出した大陸封鎖令が大きく影響してるんだけど…これがどんな法律だったか、覚えてる?

 

生徒:えっと…イギリスと大陸諸国との貿易を禁止して、イギリスに打撃を与えようとした法律!

 

しま:ですね。当然ここで言う大陸諸国にはスペインやポルトガルも入っているから、ラテンアメリカ諸国との連絡が途絶えちゃうんですよ。これが大きかった!

 

生徒:独立運動が起きても、すぐには止めに行けなかったわけですね!

 

しま:そういうこと!

 

生徒:これって…独立した国と、その指導者の名前をセットで覚えるんですか?

 

しま:そう!ハイチだったらトゥサン゠ルーヴェルテュールだし、ペルーだったらサン゠マルティン!あと、ブラジルはポルトガルからの独立という点も抑えておこう。ラテンアメリカ諸国はほとんどがスペインの植民地だったけど、ブラジルだけは違ったんだな。というわけで、イギリスの産業革命からアメリカ独立革命フランス革命を経て、ラテンアメリカの独立に至る一連の変動をまとめて…

 

生徒:「環大西洋革命」と呼ぶ!

 

しま:その通り!

歴史総合No.8~イギリスに挑戦したナポレオン~

しま:記念すべき「歴史総合」初回のブログのテーマは、<ナポレオン=ボナパルト>です!彼についてちょっとだけ話しておこう。

生徒:世界史嫌いの僕でも、さすがにナポレオンは知ってますよ!あの白馬に乗ったカッコイイ人ですよね!

しま:ナポレオンを知らない人は居ないよね!ただ、この有名な「アルプスを越えるナポレオン」の絵って…ウソだって知ってた!?

「アルプスを越えるナポレオン」




生徒:えっ!?どういうことですか?加工!?エフェクト!?

しま:ないよ!TikTokじゃないんだから!こちらを見てください。これが実際のナポレオンに近いとされています。

 

もう1枚のナポレオン



生徒:えーーー!!!馬が白くない!!!

しま:いや、そこ!?あ、ちなみにこの動物、馬じゃなくてラバらしいよ。

生徒:ラバ!?本当だ、たしかになんかおとなしそう…。すっかり騙されていました。

しま:さて、ナポレオン=ボナパルトは1769年8月、コルシカ島で誕生します。コルシカ島は、フランスの領土に成り立てほやほやの島。そんな田舎で生まれたナポレオンが、フランス…いやヨーロッパ中を動かす存在になるんだから、世界史っておもしろい!

生徒:イタリアの西に2つ縦に並んでる島の北の方ですね!

しま:そう!さて、彼の家は決して裕福ではありませんでした。この時代、出世の近道は軍人になることだったので、ナポレオンはパリにある士官学校の”砲兵科”へ入学します。そして数年後、フランスで革命が起こる。これはナポレオンにとって大チャンスだった。

生徒:どうしてですか?

しま:貴族が亡命していくので実力があれば、どんどん出世できるからです!ナポレオンはジャコバン派に協力的な活動を行うと、みるみる出世していく…かと思った矢先に…クーデタが起こるんです。

生徒:クーデタが!?………クーデタってなんですか?

しま:武力で政権を奪うことだよ!恐怖政治をおこなっていたロベスピエール派が逮捕、処刑されたんだ。ロベスピエールを支持していたナポレオンも投獄され、再出発となります。それからは有力人のサロンを訪れ人脈を作る毎日…。そんな日々の中で出会ったのが、のちの奥さんジョゼフィーヌでした。

生徒:どんな偉人も、恋愛してるんですねぇ

しま:さて、ナポレオンはこの時作った人脈もあり、総裁政府のもとで、イタリア遠征軍の司令官に就任します!そして第1次イタリア遠征へ出発です!ここからがプリントNo.9だ!

生徒:先生…どうしてイタリアと戦ったんですか?

しま:イタリアと戦ったわけじゃないんだよ!フランスと国境を接するイタリア北部は、当時フランスの敵であるオーストリアが支配していたんだ。だからイタリア遠征というのはオースオリアを倒しにいったってこと。これに成功し、オーストリアと条約を締結します。第1回対仏大同盟を結成していたオーストリアと条約を結んだから、これで第1回対仏大同盟は解消。さて、勢いそのままに、ナポレオンは次にエジプト遠征を決定します。

生徒:…どうしてエジプトへ行ったんですか?

しま:フランスの敵は常にイギリスだ。そんなイギリス最大の貿易相手国がインド。イギリスとインドを結んでごらん?中継地点がエジプトだってことがわかるね。

 

生徒:ナポレオンは、イギリスとインドとの連携を断とうとしたわけか。

 

しま:その通り。あと、これは覚えておいて欲しいんだけど、ナポレオンって陸での戦いには強いけど海での戦いは勝てないんです。このアブキール湾の戦いで活躍したイギリス提督<ネルソン>という男、軍人ナポレオンにとっての最大のライバルですから、覚えておきましょう。さて、このナポレオンのエジプト遠征などの軍事的進出に対してイギリスなどが結成したのが第2回対仏大同盟だ。

 

生徒:ナポレオン、ピンチっぽいですね。

 

しま:なんとかエジプトを脱出したナポレオンは、フランスに戻り、1799年、ブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒します。そして新たに統領政府を樹立します!

生徒:先生!総裁政府には5人の総裁が居ましたけど、今回は何人ですか?

しま:3人です。ただし!ナポレオンが第一統領という地位に就く。要は、一番偉い!ってこと。他の2人はナポレオンに従うから、事実上ナポレオンによる軍事独裁が始まったと考えてください。

生徒:なるほど!他の2人はパシリみたいなもんですね!フランスパン買ってこーい!みたいな。

しま:さて、内政改革で外せないのが「ナポレオン法典」の制定です!柱は「所有権の不可侵・契約の自由・家族(家父長権)の尊重」。ちなみにこの法典が重要だって言っているのは俺じゃない。ナポレオン本人なんだよ。それがコチラ

「余の真の栄誉は40回の戦いの勝利ではなく、永久に生きる余の民法典である。」

生徒:本当だ。自分で言ってる…。ちゃっかり戦争の勝利も自慢してるけど…

しま:どうしてこれが重要なのか。彼はこの法典の中で、「フランス国家は、国民の私有財産を決して没収しません。差別もしません。信仰は自由です。」と、現実的なことを唱えていく。つまり、フランス革命の成果を明記し、保障したんですよ!

生徒:今の常識から見れば当たり前のことですけど、きっと当たり前だからこそすごいんですよね。

しま:そう。200年以上も前のことだからね。とにかくこの法典で、ナポレオンはジャコバン派の改革によって土地を得ていた自作農たちから強く支持されます。そして人気が高まってきたところで、いよいよ皇帝の座に就くのです!

生徒:1804年、ノートルダム大聖堂での戴冠ですね!

ナポレオンの戴冠式

 

ナポレオンの戴冠

 

しま:ナポレオンの戴冠式を描いたダヴィドの絵とそのデッサンです。ナポレオンの後ろに座っているのがローマ教皇ピウス7世。これ、予定ではローマ教皇から皇帝の冠を授けてもらう段取りだったんですけど、いざ戴冠式になるとデッサンのようにナポレオンは自分の手で冠を載せたんです。

生徒:あらら…緊張して間違えちゃったんですね!

しま:いや違うわ!あえてだよあえて!ローマ教皇の力ではなく、自分の力で皇帝になったんだぞ!というアピールだから!で、ここから第一帝政開始です。以後、ナポレオン=ボナパルトではなく、ナポレオン1世と呼びましょう。さて、ポイントは国民投票によって皇帝に即位したというところ。無理やりじゃなくて、国民に選ばれた独裁者ですから、もう誰にも止めることはできません!これは脅威ですね。早速ナポレオンの最大のライバルであるイギリスの小ピットという人が、第3回対仏大同盟を結成します!

生徒:今度はナポレオンの外政ですね。まずはフランスの宿敵であるイギリスへの上陸作戦から。えっと、たしか…ライオン…ハイエナ…タイガー…

しま:いや、トラね!1805年10月、トラファルガーの海戦!フランス艦隊はぼろ負けです。イギリスの司令官はさっきのアブキール湾の戦いと同じくネルソン提督だ。この人がすごいのは、戦闘中に常にデッキの上に立っているところ。司令官自ら最前線に立っているんだから、そりゃ部下の士気は高まりますわな!

生徒:ですね!でも、危なくないですか?

しま:いや、ちょーーー危ないですよ。実際ネルソンはこの戦いで死んでしまう…。

生徒:でも、英雄ですよね。そんなカッコイイ死に方をしたら。

しま:ですね。さて、戦争で勝ち続けることがナポレオンの人気を保つ条件です。何とかこの敗戦を帳消しにするくらいの大勝利をおさめなければなりません。ということで、イギリスへの上陸作戦は諦め、大陸制覇へと舵を取り、オーストリアに出撃します。海はダメでも、陸ならいけるぞナポレオン!

生徒:先生!この大陸封鎖令ってなんですか?

 

しま:イギリスに経済的なダメージを与えるための、貿易禁止令だね。1806年、プロイセンの首都ベルリンに入ったナポレオンが出しました(=ベルリン勅令)。でも、これをロシアが勝手に破っちゃうんですよー!

生徒:先生!大陸、封鎖できません!!!

しま:これを放置していては、ナポレオンのメンツは丸つぶれ。1812年6月、ナポレオンはロシア遠征を開始する!兵士はなんと60万人!…しかし、この時はまだ、このロシア遠征がナポレオン没落のきっかけになるとは誰も思っていなかったのでした…。

生徒:ど…どうなったんですか…

しま:ナポレオンの予想以上にロシアの冬は早く、そして寒かった…。初夏に遠征を開始したフランス軍は、冬の装備が万全じゃない。軍服のボタンは温度の低下で砕け、極寒の中、服のボタンもとめられない…。そして物資は全て、退却していくロシア軍に焼き払われ手に入れることができない…。結局12月にロシアから帰還した兵士はわずか5千人でした…。

生徒:大失敗や。

しま:そして、ナポレオンにとどめを刺したのが1813年のライプツィヒの戦いです。別名、諸国民戦争。連合軍の主力は、ロシア、オーストリア、そして改革を経て強くなったプロイセンでした。

生徒:おぉ。プロイセン改革の成果がここに表れてくるのか!

しま:この敗北でナポレオンは流刑。流されたのはエルバ島。代わりに即位したのは、革命で処刑されたルイ16世の弟、ルイ18世!よってここにブルボン朝復古王政スタートです。

生徒:革命の前に戻っちゃうんですか??

しま:そのへんをどうするか、ウィーンで話し合っていたんですが、これがなかなかまとまらないんです。その隙を見て、ナポレオンはエルバ島を脱出し、1815年3月、パリに帰還!再び皇帝の座に返り咲きます。

生徒:まさかの復位ですか!

しま:これにはすぐに、ウェリントン率いるイギリス、そしてプロイセンなどの連合軍が立ち上がった。それが1815年6月のワーテルローの戦い。この敗北で、ナポレオンは再び退位(=百日天下)。またまた流刑。前回のエルバ島はフランスから近かったので、今度は大西洋の孤島セントへレナ島へ流されていきましたとさ。おしまい。

生徒:先生!一個忘れてますよ!スペインの反乱!

しま:おっと、そうでした!えっと、最初にフランス支配に抵抗をはじめたのがスペインです。1808年~14年まで。スペイン国王はナポレオンのお兄さんであるジョゼフ!このジョゼフに対して、一般市民が抵抗した。その反乱軍を処刑する様子を描いた作品が、ゴヤの「1808年5月3日」です。結局最後までナポレオンは、この反乱を鎮めることができませんでした。

1808年5月3日

しま:両手を大きく広げる中心人物の男をよーく見ると、手のひらに穴が開いている。これは十字架に打ちつけられたイエス゠キリストの聖痕だ。この絵にはゴヤの祈りが込められている。

 

生徒:スペイン国民に神のご加護がありますように…ということですね。