読む世界史

書き残そう、世界の歴史の物語

No.10(西)帝政開始から五賢帝時代

しま:さ!いよいよ今日からローマ帝国(=帝政ローマ)の幕開けです!と、同時に「パクス゠ロマーナ」の始まり!

 

生徒:「ローマの平和」ですよね!勉強してきましたよぉ!

 

しま:お!素晴らしい!さて、まずは見通しをたてましょう。帝政ローマ[前27~後395年]は大きく前半と後半に分けられる。前半がプリンキパトゥス(元首政)で、後半がドミナトゥス(専制君主政)!前半はまだ皇帝が元老院に気を遣っているけど、後半はもう「私は神だ!崇拝しなさい!」くらいに威張ってるイメージ!

 

生徒:プリンキパトゥスの最初がオクタウィアヌス(称号:アウグストゥス)でしたよね!彼の業績で覚えるべきことは何ですか?

 

しま:ちょっとハイレベルだけど、北方のゲルマン人のもとへ遠征に行ったことかな。トイトブルクの戦い[後9年]と言います。ただ、これが惨敗に次ぐ惨敗で…。悔しさから「どうしてだよょぉおぉぉ!余の軍団を返せえぇぇえぇぇえ!」と嘆いたことは有名。この戦いによって、ローマはライン川ドナウ川を結んだラインをゲルマン人との国境として定めました!

 

生徒:あれ?途中、藤原竜也居ませんでした?

 

しま:ちょっと盛りました。

 

生徒:この後のネロ帝って名前聞いたことありますよ!確か…暴君ハバネロ…ですよね!?

 

しま:いやそれ辛いお菓子!暴君ネロね!即位した時17歳。若い!セネカという哲学者を家庭教師につけています。このネロ帝、詩を作ってコンクールに出たり、競馬に出場したりするんですけど…まぁ他の出場者からすれば、皇帝を差し置いて優勝するわけにはいかないから、当然ネロが優勝するんですよ。それで、ネロは自分のことを天才だ!と思い込んでしまう。まさに“裸の皇帝”というやつ…

 

生徒:確か…キリスト教徒の迫害も行ったんでしたよね?

 

しま:そうそう。64年のローマの大火をキリスト教徒のせいにして迫害したんだ!で、その後始まるのが五賢帝時代[後96~180年]です!帝政ローマが一番平和だった時代だね。

 

生徒:五人の賢い皇帝が続くから五賢帝ってわけですね!

 

しま:その通り!元老院で話し合って、一番皇帝にふさわしい温厚で良識ある人物を選ぶことにした。その最初がネルウァ[位96~98年]です!即位したとき66歳。もう、定年を迎えたお爺さん。ネルウァには子供がいなかった。そこで養子を迎えて帝位を譲ることにした。これが2人目のトラヤヌス[位98~117年]です。この人は大事!

 

生徒:どうしてですか?

 

しま:ダキアメソポタミアをパルティアから奪い取って、帝国領土が最大になったんだ!メソポタミアは良いとして、ダキアは現在のルーマニアね!今でも、周りにはスラヴ人がたくさん住んでいるのに、ルーマニアにはラテン系の人々が多く住んでいるのはこの時の名残り。さて、トラヤヌスにも子どもがいませんでした。そこでまた元老院議員から養子をもらってきます。これが3人目のハドリアヌス[位117~138年]です。

 

生徒:えっと…トラヤヌス帝で領土が最大ってことは…ハドリアヌス帝はその領土を守った感じですか??

 

しま:鋭いね!その発想よ!最大版図を維持するために、ハドリアヌスブリタニアに長城を築いた。これはケルト人対策!ブリタニアってのは、今のブリテン島。わからなかったら地図で確認!さて、ハドリアヌスにも子どもがいません。また養子です。そして4人目がアントニヌス゠ピウス[位138~161年]。で、例によってピウスにも子供がいない。ってことでお決まりの養子。五賢帝の5人目の皇帝がマルクス゠アウレリウス゠アントニヌス[位161~180年]です。

 

生徒:うわっ!名前長っ!

 

しま:これ以上長い人は出てこないから口ずさんで覚えましょう!この人は、皇帝としてだけではなく、ストア派哲学者としても有名。“哲人皇帝”って呼ばれる。代表作には『自省録』という本がある!さて、この人だけ、今までの4人の皇帝と違うところがあるんだけど…分かるかな?

 

生徒:えっと…子どもが居た!

 

しま:そうなんです!ここまで優秀な皇帝が続いたのは偶然じゃなく、優秀な人物を養子として選んでいたから。ただ、実の子が居るとなれば、そりゃ実の子に跡を継がせたいと思うのが親心ですわな。ってわけで5人続いた優秀な皇帝はここで途絶えてしまい、五賢帝時代終了となります。

 

一応まとめておくよ!

 

.ネルウァ養子相続制の開始

.トラヤヌスダキアメソポタミアを征服し、最大版図

.ハドリアヌスブリタニアゲルマニアに城壁建設

.アントニヌス゠ピウス…財政改革を行い、貧民救済事業実施

.マルクス゠アウレリウス゠アントニヌス…“哲人皇帝”(=ストア派哲学者:『自省録』)、『後漢書』に “大秦王安敦” の名前で登場

 

生徒:ん?最後のまだ勉強してないですよ!

 

しま:中国の歴史書の『後漢書』に、~166年、大秦王安敦の使者が日南郡に来航~って書いてあるんだけど、この大秦王安敦ってのが、五賢帝最後のマルクス゠アウレリウス゠アントニヌスのことなんです!

 

生徒:つまり、ローマ帝国は中国と貿易をしていたということですね!

 

しま:そうそう!他にも南インドとも積極的に貿易している。ちなみに、ローマ帝国とインドの間で行われた季節風貿易の様子は『エリュトゥラー海案内記』という1世紀頃にギリシア系商人によって書かれた本の中に載っているんだ!ハイレベルだけど覚えておこうね!

 

生徒:あれ…?そういえば、逆に後漢からローマ帝国に使者がやってくるんだー…なんて話、前にしてませんでしたっけ?

 

しま:よく覚えてたね!そう!後漢から甘英という使者が派遣されたのが97年のこと!だから…ちょうど五賢帝時代が始まった1年後だね!この話はまた中国史で詳しくみることにしよう!