読む世界史

書き残そう、世界の歴史の物語

歴史総合No.11~後発国による「上からの近代化」~

しま:さて、最初のテーマはロシアの南下政策です。

 

生徒:南下?先生、なんでロシアは南へ行きたがるんですか?

 

しま:ロシアは冬になると、凍てつく寒さでほとんど港が凍っちゃうんですよ。だから不凍港を獲得すべく南下したい!

 

生徒:ってことは、この黒海からエーゲ海へ抜ける2か所の狭~い海峡を通らなくちゃいけない…ってことになりますよね!

クリミア戦争

 

しま:そういうこと!今のイスタンブルがある方がボスフォラス海峡で、南下するとあるのがダーダネルス海峡!当時この海峡はオスマン帝国支配下にありました。

 

生徒:ということは、ロシアとオスマン帝国との戦争に…

 

しま:なるんだけど、ロシアが進出してくると邪魔になるから南下を阻止しようとするイギリスやフランス、さらに国際的な地位を高めたいサルデーニャもここに参加してくるからややこしいんだ。

 

生徒:複雑なんですね。

 

しま:とにかく戦争の繰り返しです。

 

生徒:なるほど。

 

しま:さて、クリミア戦争の要因について話しましょう。フランスのナポレオン3世が聖地イェルサレムの管理権を獲得しました。ナポレオン3世という人は、熱心なカトリック教徒。しかし、ロシアには、ギリシア正教徒が多かった。つまり、フランスの管理下だと、ギリシア正教徒がいじめられてしまう…かも…!?という口実から、1853年、クリミア戦争開始!

 

生徒:なんだか強引ですね!

 

しま:口実ですから。しかし、このクリミア戦争でロシアは惨敗!1856年のパリ条約で黒海の中立化が決められるんだ。ロシアは自らの後進性を痛感することになる…。

 

生徒:うーん…なんていうか、ロシアって海にこだわり過ぎじゃないですか?

 

しま:とにかくもうロシアの心は傷だらけですよ。ランプの貴婦人ナイティンゲールに慰めてもらいましょう。

 

ナイティンゲール

 

生徒:…ん?ナイティンゲール…?何した人でしたっけ?

 

しま:え!クリミア戦争中、最前線において敵・味方関係なく看護にあたったイギリスの看護師さんでしょ!覚えておいて!

 

生徒:プリントに書き込んでおきます!

 

しま:では、いったんロシアはおいといて、イタリアの統一をみていきましょう。最初に活動を始めたのは秘密結社カルボナリ。オーストリアによるイタリア人支配に抵抗してイタリアの統一を目指しますが、失敗。

 

生徒:カルボナーラの語源になったカルボナリですね!

 

しま:その後、イタリアにおける最初の政党ともされる青年イタリアが、マッツィーニを中心に結成され、統一を目指しますが、これもやはりうまくはいかなかった。

 

生徒:もっともっと強い指導者が必要そうですね。

 

しま:さぁ、あらためて地図を見るとわかるように当時のイタリアはバラバラ状態です。

 

統一前のイタリア

しま:例えば、北イタリアのロンバルディアヴェネツィアは、1815年のウィーン議定書でオーストリアが持ってった。そして、中部イタリアや、ローマ教皇領という場所があるけど、ここはフランスが守っている。フランス軍が駐屯しているってことね。南イタリアにはスペイン系のブルボン朝です。こういうところを倒していかないと、イタリア統一とはいかないんですよ。

 

生徒:でも、それをやってのけるんですよね?

 

しま:そういうこと。その主人公こそ、サルデーニャ王国です!

 

生徒:ふむふむ。あ、サルデーニャ王国って2か所に分かれてるんですね!

 

しま:そう!飛び地!国王の名前はヴィットーリオ=エマヌエーレ2世。すごいのはオーラだ。実際に国を動かしていたのは首相のカヴール。この人、とにかくすごいんです。では、北イタリアからスタートしていきましょう。まず、ロンバルディアヴェネツィアを取りたい。そのためには、オーストリアに勝たなきゃいけないけど、単独では無理。そこで、ナポレオン3世率いるフランス軍の力を借りようとするんです。だからクリミア戦争に参戦したんですよ。ただし、タダで協力してもらうというわけにはいかなので、サヴォイアとニースという場所をフランスにあげることを交換条件にした。ここはフランス人が多く住んでるんです。そして1859年、イタリア統一戦争開戦!サルデーニャ&フランス連合軍は、オーストリアを破ります!ビックリするくらいサルデーニャ王国は強かった。もしこのまま領土を拡大していったら…?

 

生徒:…はっ!その先にはフランス軍が駐屯している中部イタリアやローマ教皇領がある!

 

しま:そう!バックに居るのはフランスですよ!え?じゃあフランスは自分たちと戦うんですか!?というわけで、フランスはサルデーニャ王国の支援を途中でやめちゃう。こうなってしまうと、サルデーニャオーストリアに勝つのは厳しい。結局、ロンバルディアを取ったところで戦争は中断です。もう、カヴールはめちゃくちゃ怒って、ナポレオン3世に会いに行くんですよ!ただし、ナポレオン3世は決してカヴールを殴ったりはできない。もしそんなことしたら、サヴォイアとニースに住んでるフランス人が報復で殺されちゃいますからね。

 

生徒:ナポレオン3世は国民投票で当選した人ですから、人気は落とせないですよね。

 

しま:そう。だからやっぱりサヴォイアとニースはもらわないと。と、いうわけで、フランスが持っていた中部イタリアをサルデーニャにあげる代わりに、サヴォイアとニースは無事にフランスへと渡りました。1860年のことです。

 

生徒:なるほど。

 

しま:さて、ここで全く違う人が動き出します。青年イタリアのガリバルディです。彼の率いる軍隊は1000人規模だったので“千人隊”と呼ばれます。赤いシャツを着ていたので赤シャツ隊とも言う。怒涛の勢いで両シチリア王国征服です。

 

 

ガルバルディ

 

しま:このまま行けば南下してきているサルデーニャとケンカになっちゃいますね!

 

生徒:どうしてですか?どっちもイタリアの統一を目指している同志じゃないんですか?

 

しま:目指している政治体制が違うんだよ。今、下から動いているのは共和政を目指すガリバルディ。一方、上から来てるのは王政を目指すサルデーニャ王国です。そこで、カヴールは、ガリバルディをヴィットーリオに会わせた。ガリバルディは、完全にヴィットーリオに惚れこんじゃうんです。「この王なら国を任せても問題ない!」って言って、両シチリア王国の地を献上しちゃうんです!

 

 

生徒:なんと!お人よし!

 

しま:こうして、1861年にイタリア王国成立。首都はトリノ。ただし、問題は残されています。実はまだこの段階で塗られていない、南チロルとトリエステという場所。ここにはイタリア人が多く住んでるんですけど、オーストリアの領土で、まだ回収できていない。そこを「未回収のイタリア」と言います。ここは第一次世界大戦が終わるまで回収できません。

 

生徒:チロル…?チロルって、あのチロルチョコのチロルですか?

 

しま:そうらしいですよ!他にも工業地域主導の国家統一によって北部は豊かになっているけど、農業地域の南部は貧しかったりと、これは今のイタリアにも残された問題です。

 

生徒:次にドイツお願いします!

 

しま:1815年のウィーン議定書により、「ドイツ連邦」が成立しました。35の君主国と4つの自由市によって構成されるドイツ連邦に、統一国家としての実態は、ありません。事実上の分裂状態です。

 

ドイツ連邦

生徒:…ってことは、国境を通過するたびに関税がかかる…ってことですか?

 

しま:そういうこと。これ、めっちゃ不便。じゃあさっさと一個にしちゃえばいいじゃん!って思うかもしれないけど…そしたら1人を除いて、その他の王はみーんなリストラされちゃうわけだよね。そりゃ反対しますよ。ただし、”ある国”と”ある国”だけは王になれる可能性が高いから統一をしたいと言っている。どこだか分かるかな?

 

生徒:分かった!プロイセンオーストリアだ!

 

しま:その通り!まず、経済的な統一から進むんだけど、その中心となったのはプロイセンだった。これはプロイセンが飛び地になっているからだ。1834年、ドイツ関税同盟の結成です。これに加わった国同士で関税をなくして、自由貿易による経済発展を目指しました。

 

生徒:なるほど!

 

しま:政治面では、1848年のフランクフルト国民議会。これ、授業では話せなかったので、ここで説明します。さて、当時はオーストリアがドイツ連邦の中でNo.1で、ハンガリーまで併せ持っていた。その、オーストリアを中心としたドイツの統一…それが大ドイツ主義です!そうではなくて、他民族帝国のオーストリアをはじきだした状態で、プロイセン中心での統一を目指す、これが小ドイツ主義です。議論の結果、勝ったのは小ドイツ主義。そしたら革命派が皇帝の冠をプロイセンに持ってきたんだよ。これ、かぶってください!って。それをプロイセン王は

 

「こんなもんいらねぇ!」

 

と拒否します。

 

生徒:え!?王になりたかったんじゃないの??

 

しま:だってこの冠、学生や労働者とかの革命派が持ってきたんだよ!?こんなのをかぶったら今後言いなりになるしか無いじゃないですか!だから言ったよ。

 

「あなたたちからはもらえない。でも、自分で勝ち取るから、その時は僕のこと支持してくれよ。」

 

って。

 

生徒:カッコイイ。

 

しま:さて、イタリア王国が成立したのと同じ1861年。新しいプロイセン国王が即位します。ヴィルヘルム1世です。いよいよドイツ統一に乗り出します!サルデーニャのヴィットーリオ=エマヌエーレ2世がカヴールを首相にしたのと同じように、ヴィルヘルム1世が、ドイツ統一のために首相に任命したのがビスマスク。19世紀後半のヨーロッパを代表する大政治家です。

 

生徒:きいたことある!

 

しま:ビスマルクと言えば「鉄血政策」。鉄は武器、血は兵士。要するに、軍事力を強化して、戦争によってドイツを統一するぞ!と宣言したわけだ。そして、着々と軍備を整えていく…。もちろん、戦争したい相手はオーストリアだ。ライバルのオーストリアに勝てばいいんだから。

 

生徒:1866年、プロイセンオーストリア(普墺)戦争ですね

 

しま:結果はプロイセンの勝利!1867年に「北ドイツ連邦」誕生です。どうして“北”ドイツなのかと言えば、まだ南のカトリック4国が入っていないからですね。

 

生徒:負けたオーストリアはどうなったんですか?

 

しま:負けて弱ってる隙にハンガリーに独立されたらオーストリアは領土が半減!これは本気でやばい。だから先手を打ちました。

 

「お前らハンガリー自治を与えてやるよ。だから暴れるな。」って。

 

生徒:なるほど。独立される前に自治を与える…妥協ですね。

 

しま:そういうこと。まさに妥協。ドイツ語で「アウスグライヒ」と言います。これにより、オーストリアは1867年に「オーストリアハンガリー(二重)帝国」と名前を変えました。ハンガリーの王はオーストリア皇帝が兼ね、その下で二国がそれぞれ別な政府と国会を持つという形です。さて、南ドイツのカトリック4国ですが、ここは潰されない自信があった。後ろに居るフランス皇帝ナポレオン3世が、熱心なカトリック教徒だからです。ビスマルクに攻められたって、きっと助けにきてくれる!と思っている。

 

生徒:じゃあビスマルクは、フランスを攻めちゃえば話は早いですね。

 

しま:でも、フランスと戦争するには理由が必要です。さて、時のスペインはブルボン家。フランスの親戚だね。そのスペイン王が革命により亡命してしまった。そして、プロイセンの王家であるホーエンツォレルン家の国王がスペインに誕生しそうになった。もし、そうなれば、フランスは東西から挟まれる形になる。そこでフランスはお願いするんだ。これが通って、とりあえずは平和的解決した…かに思われた。

 

生徒:え!?これで終わらないんですか!?

 

しま:プロイセン王ヴィルヘルム1世がエムスという温泉地で静養してたんです。そこへフランスの大使が向かった。

 

「よかったら今後ずっと、スペイン王は、ホーエンツォレルン家から出さないって約束してもらえませんか?」

 

って。ヴィルヘルム1世は、「未来のことまでは私には決められないよ」と返事をした。そして、このことを首相のビスマルクに電報で報告するんです。

 

生徒:ふむふむ。それで?

 

しま:ビスマルクは言ったよ。

 

「了解。じゃあ今の話を書き換えて新聞に載せちゃおう。王は無理やり、強引に、フランスの大使から約束を強要された・・・ってね。」

 

生徒:えっ!そこまではされてないじゃないですか!!!

 

しま:そうなの!改ざんですよ!これを「エムス電報事件」と言う。これにはドイツ国民もフランス国民もプンプンです!ついにナポレオン3世は、ビスマルクの挑発に乗り、1870年、フランスとドイツの戦争が始まります。

 

生徒:プロイセン=フランス(普仏)戦争ですね!

 

しま:戦争は、ドイツ軍の連戦連勝。焦ったナポレオン3世は、自ら指揮を執るために前線に出かけた。そしたらセダンという場所でドイツ軍に包囲されて、8万のフランス軍とともに捕虜になってしまった。そのままドイツ軍は進軍を続け、パリ包囲です。そんな最中、1871年1月、ドイツ帝国の成立が宣言されました。が、なんとその戴冠式が行われたのが、あのヴェルサイユ宮殿

 

ドイツ帝国の成立

 

生徒:えっ!?ヴェルサイユ宮殿って言ったら、フランスのブルボン家の栄光の象徴じゃないですか!そこでドイツが戴冠式を行うだなんて…フランス人にとって、この上のない侮辱!!!

 

しま:そして2月。講和条約で、ドイツはフランスから多額の賠償金と、アルザス、ロレーヌという2つの地方を獲得しました。アルザスとロレーヌは地下資源の宝庫。これはフランス人にとってショックがでかかった。

 

生徒:ドイツとフランスの関係は最悪ですね…。

 

しま:だからこの後、フランスに報復されないように、ビスマルクはフランスの孤立化を進めるんだ。その一つが三国同盟です。

 

生徒:ドイツ、オーストリア、イタリアの同盟ですよね。

 

しま:ですね。さぁ、ドイツ帝国の性格を簡単に見て終わりにしましょう!ビスマルク憲法に規定された政治制度は立憲君主政。だけど、皇帝の権限が大きくて、議会の権限は小さいです。

 

生徒:ビスマルクはどんな政策をとったんですか?

 

しま:ビスマルクの課題は、内政の整備。3つ覚えてください!社会主義鎮圧法、社会保障制度、保護貿易政策です。社会主義鎮圧法は1878年に制定された法律。社会政策は、具体的には、災害保険、疾病保険などなど。貧しい社会主義者が暴れないように、うまくバランスをとっているわけです。

 

生徒:いわゆる、アメとムチってやつですね。

 

しま:最後に保護貿易政策。イギリスから安い品物が入ってくるので、それをシャットアウトして、国内産業の育成をはかりました!