読む世界史

書き残そう、世界の歴史の物語

No.13(西)フランク王国の発展

しま:ヴァンダル人、さすがに移動し過ぎだろ!そりゃバラバラになるよ。西ゴートも、イベリア半島まで移動してる。じゃあフランクは?これ、川を渡っただけだよ!ライン川を東から西へまたいだだけ!よいしょっ。しかもここはガリアと言って今のフランスだから農業生産性も非常に高かった!

 

生徒:そういえば、ゲルマン人ってだいたい何人くらい入ってきたんです?

 

しま:だいたい15万~20万人と言われている。対するローマ帝国はだいたい300~400万人。20倍だよ?イメージは、風呂に入ってて、よだれがぴゃーってたれちゃった感じ。え?だからローマに大した影響はないってこと!

 

生徒:ってことは??

 

しま:北魏をつくった鮮卑族と同じだ!「郷に入っては郷に従え」だよ?そこで、メロヴィング朝フランク王国の建国者であるクローヴィスは、アタナシウス派に改宗したんだ!アリウス派ってローマでは異端だったでしょ?つまりこれは、ローマ人との親密化を図っているんです。ちなみにこのランス大聖堂は北フランスにあるんですが、歴代フランス王が戴冠式をする場所になります。ナポレオン1世以外のね。さて、ゲルマン人は生き残るためにローマ教皇に近づく。ここからは別紙のプリントも参考にしながら、しっかり聞いていてください!

 

生徒:…録音させてください!

 

しま:まず、西ローマ帝国で一番偉い人は西ローマ皇帝だ!政治上のトップ。西ローマで宗教上一番偉い人はローマ教皇。お互いに干渉しません。それに比べて、東ローマ帝国で一番偉い人は皇帝。宗教上偉い人はコンスタンティノープル総主教と言う。さてそこに、375年以降、ゲルマン人が入ってきます。ただし、そのほとんどが西ローマへはいってくる。そして476年、西ローマ帝国は滅亡する。これ、ローマ教皇は殺されてはいないですよ。それはなぜか?ゲルマン人キリスト教徒だからね。それで今、西ローマというマンションは、ローマ教皇だけが住んでいて、あとの部屋はすべてGGGGGGGGGGGです。この状況わかります?

 

生徒:GってGermanのGですか?

 

しま:そうです。ローマ教皇に屈強なイメージはあまりない。だから…女の子にしても良いですかね?キョウコでいい?さぁ、今キョウコは寂しい。キョウコには付き合っていた彼氏が居たよな?。西くんだ。だけど、西くんは居なくなった。Gにやられた。キョウコには今、守ってくれる人が居ないんです。政治的孤立状態だね。そういう時、西くんと血を分けた兄弟が居たことを思い出す。東くんだ。そこで、キョウコは言ったよ。「東くん、私を守ってくれない?」って。…きたよ!こうやって女は寂しがるんだよ。で、男はこういうのに簡単にだまされる。でも騙されるのも楽しいものかもしれな

 

生徒:ちょっ、なんの話ですか

 

しま:さてここで東くんの家の中を見ておこう。東くんの家では、政治が宗教をつかさどっています。残ってるんですよ。ローマ帝国の伝統が。これを“皇帝教皇主義”と言う。ただ、キリスト教徒は嫌がってますよ。だって宗教が政治に支配されてるんですから。だから抵抗している人たちが居た。修道院です。これは全寮制の学校みたいなもの。これが東くんに対抗しようとしているんだ。そんな中、外敵がやってきた。イスラームだ。東くんは厳しいぞ。仲間割れしてるところに敵が来ちゃったんだから、まずは修道院を抑え込まないといけない。そして、これを考えるんだ。

 

生徒:これ、とは?

 

しま:昔ね、俺が小さいころは小学校の前にこういう人が立ってたんだよ。みんなは知らないかな?絵本みたいなの持って、キリスト教のことを話してくれるんです。ひらがなで書いてある。「いえすは、ふっかつしました。」とか。しかもその本、タダでもらえた。難しいものを教える時には、絵や像などを使った方が分かりやすいんです。でも聖書に書いてあるよ?神様を像や絵にしちゃだめだって。そんなとき、東くんはイスラーム教と触れた。イスラーム教と言えば偶像崇拝禁止。見つけたよ、東くん。ここを指摘してやれば、もうこれ以上修道院勢力は広まらない。そこで726年、聖像禁止令の発布だ。こうして修道院勢力は落ち込んだ。

 

生徒:うまいこと考えましたね!

 

しま:でもね…修道院は後から言ってきたよ。今回は俺たちの完敗だ…。でも、お前の彼女も聖像使ってないか?って。お前、彼女には使わせておくのか?それでいいのか?って。それで、東くんはキョウコを呼び出すんだよ。

 

※イメージ

 

東「お前さ、まさか…聖像なんて…使ってないよな?」

 

キョウコ「 」

 

東「あれ?お前、それ…なに?」

 

キョウコ「いや、え、これタンブラー。」

 

東「これ…聖像じゃん。」

 

しま:キョウコは使ってたんだよ!ゲルマン人キリスト教を広めるために使ってた!キョウコは迷ったよ。彼氏を取るか、友だちを取るか…。キョウコは怒って帰っちゃう。「もう東くんなんて知らない!」って。鍵ガガガってかけます。スマホを枕元に置いて。もう、東くんなんて最低!って

 

生徒:なんでスマホを枕元に?

 

しま:分かるだろ!…待ってるんだよ。東くんからのLINEを。

 

そしたら突然外から声がする。

 

アッラーアクバル!…アッラーアクバル!」って。

 

真っ白い服を着たイスラーム教徒がそこまで来てるんですよ。

 

あーあ、もう終わり…。

 

誰も守ってくれる人はいない…。

 

生徒:キョウコ、絶体絶命…

 

しま:そしたら、突然声がしなくなった!あれ?あかない!ドアがあかない!…鍵かけたからだね。ガチャ。ん?と思って廊下に出たら…イスラーム教徒が倒れてるんだ。

 

生徒:なんと!

 

しま:キョウコは「きっと東くんが助けてくれたんだ!」と思っていたらLINEがきた…。東くん…じゃないんだよ。カール゠マルテルだった!まさかGが自分を守ってくれるなんて思って無かった!もしかして…フランクの人たちって良い人かも。みたいな。これが732年、トゥール・ポワティエ間の戦いです。

 

生徒:カール゠マルテルが西ローマ世界を守ったんですね!

 

しま:その通り!さぁ、726年に聖像禁止令を出した東くんですが、本当の名前はレオン3世です。カール゠マルテルは王ではない。宮宰だ。宮宰ってのは、王領地の管理人で、国のNO.2です。マンションの管理人のおじさんみたいなね。ただ、カール゠マルテルは王になる前に死んじゃう。そこでその子ども、ピピンちゃんが国民に推される形で王になるんです。キリスト教世界で革命やクーデタは絶対禁止ですよ。だからこれ、本当はダメなんじゃないの?でも、ローマ教皇は支援するんですよ。お父さんのカール゠マルテルがやってくれたこと、すなわちトゥール・ポワティエ間の戦いの勝利への恩返しなんです。

 

生徒:キリスト教世界を守ったヒーローですもんね!

 

しま:でも、ピピンからすれば、その業績はお父さんのものですから、キョウコになにかお返ししてあげなくちゃって思うんです。当時、キョウコにはストーカーが居た。ランゴバルドです。危ないから討伐します。そしてその土地を奪い“恩返しの恩返し”をします。ここ、ラヴェンナ地方と言って、のちのローマ教皇領の起源となります。756年、ピピンの寄進だ。土地をもらったら?結婚するしかないだろ。でもピピンは死んじゃう。その子どもがカール大帝シャルルマーニュ(フランス語)とも言う。こんな名言があるよ。「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」。ベルギーの歴史家ピレンヌという人の言葉。イスラーム教徒がもし攻めて来なかったら?シャルルマーニュがこういう形で登場してくることは無かったってわけ。では、いきましょう。カールの戴冠です。場所はサン゠ピエトロ大聖堂。西暦800年、クリスマスの朝。キョウコは帽子を持って待っている。昔付き合っていた西くんがかぶっていた帽子だ。その帽子を、フランクにあげるんです。これであの西ローマ帝国が…復活したんです!!!

 

生徒:なるほど!政治と宗教が再び結びついたわけですね!

 

しま:そういうこと!ではカール大帝の内政を見ていこう。彼は、各州に伯を設置して、それを巡察使で監視する中央集権体制をとった。ルネサンスというのは古いものを復興することです。ローマ文化の復興をします。ローマ人との親密化のためだね。まだ周りのゲルマンの多くはアリウス派なんですよ。そこでアルクインという宣教師をイギリスのカンタベリから呼んできてアタナシウス派を布教させる。あとは、アインハルトに『カール大帝伝』を書かせている。

 

生徒:ふむふむ。

 

しま:続いて外征。774年、ピピンが懲らしめたランゴバルド王国を完全に征服し、北イタリアを統一。ちなみに、北イタリアにロンバルディアってあるよね?ランゴバルドランゴバルドランゴバルドロンバルディア。そういうこと。さらにモンゴル系のアヴァール人を撃退している。アヴァール人はその後、ハンガリーへ定着する。さらにザクセン人を討って、エルベ川下流域を併合。ただ、後ウマイヤ朝との戦いには負けるんです。そのあと、甥を戦死させてしまう…。その甥の名前がローランと言って『ローランの歌』という物語になっています。以上ここまで!難しいけど、おもしろいところだからしっかり頭の中を整理しておこう!

No.12(西)ゲルマン人の大移動

※令和5年度の世界史BのプリントはNo.12(西)が2枚あります。ミスです。こちらがNo.12②で南北アメリカ文明がNo.12①と考えてください。

 

しま:さて、久しぶりの西洋史ですね!476年、西ローマ帝国は誰によって滅ぼされたか…覚えてる?

 

生徒:もちろんです!ゲルマン人傭兵隊長オドアケル

 

しま:ピンポーン!西ローマはゲルマン人によって荒らされ、混乱し、滅ぼされてしまったわけです。今日はそんなゲルマン人のお話…なんだけど、「ゲルマン人」という言葉はあまり使いません。いろんな部族に分かれてるからです。これをキウィタス(=部族国家)と言う。彼らの原住地はバルト海沿岸。アルプス以北の先住民のケルト人を圧迫しながら勢力を拡大していきました。政治体制は王政です。ただし、王に強い権限はなく、重要事項は成年男性自由人による民会で決定する。王が居て平民が居る。平民はもれなく戦士で、王は何があっても平民を保護しないといけない。戦士は王のために忠誠を誓って戦う。この仕組みを従士制と言う。宗教はキリスト教アリウス派。もともとは自然崇拝です。で、こういうのが、<カエサル>の『ガリア戦記』[前1世紀]とか<タキトゥス>の『ゲルマニア』[後1世紀]に書かれていたわけよ。

 

生徒:アリウス派かー。確かニケーア公会議で異端になった宗派でしたよねー。

 

しま:それです。さて、ゲルマン人は375年にみんないっぺんにいちにのさーーーんで川を渡ってきた!…わけじゃない。岩に苔が生すように、大移動前にローマにちょろちょろ入ってきてるんです。1、賢いゲルマン人は下級官吏。2、賢くはないけど力自慢なら傭兵。3、コロヌス。これは小作人だね。移動の内的要因は人口の増加による耕地不足です。じゃあ外的な要因は…?これ、押されたからなんですよ。誰に押されたか…フン人です!つまりアジア系です。いい?ライン川ドナウ川を繋いだ線より西に渡ってきちゃダメだ!ってローマと約束してたんですよ。でも375年、フン人が東ゴートを服属し、押された西ゴートがドナウ川を渡ってきちゃった!おまけに410年には、西ゴート王アラリックがローマ市で略奪行為!ゲルマン人はめちゃくちゃ強いですよ!

 

生徒:これって…どの部族がどこからどこへ移動したか覚えるんですか?ヴァンダルとか、北アフリカまで移動してるし…動きすぎ…

 

しま:覚えてください!加えて、東ゴート王国の建国者テオドリックを書き足しておいてください。

 

生徒:テオドリックオドアケルを倒したんですね!テオドリック強いなー。

 

しま:実はね、ローマとゲルマン人ってケンカしているようだけど、完全な敵というわけではない。どちらにとっても強敵であるアッティラ率いるフン人に対しては連合軍をつくって戦っている。

 

生徒:451年、パリの近くで起きたカタラウヌムの戦いのことですね!

 

しま:ここで負けたフン人は、ガリアを諦めて北イタリアに南下するんです…が、そこでローマ教皇に怒られちゃうんですよ。「ここは、お前らの来るところじゃない!」って。レオ1世の説得です。で、結局実家に戻るんです。それがどこか。パンノニアという場所。ここにフン人は、憧れのガリアという名前の国をつくるんです。フン人のガリアですよ?フンガリア。そう…

 

生徒:ハンガリー

 

しま:その通り!さて、これだけたくさんの部族のゲルマンがいたわけだけど、生き残るのはたった1つです。それがどこか、分かるかな??

 

生徒:ヒントください!

 

しま:移動距離に注目してみよう!一番力を温存してそうなのはどこかな?

No.12(西)南北アメリカ文明

このプリントは以下の解説動画を観て取り組んでください。

 

youtu.be

 

※なお、令和5年度の世界史BのプリントはNo.12(西)が2枚あります。ミスです。こちらがNo.12①でゲルマン人の大移動がNo.12②と考えてください。

 

しま:アメリカ大陸の先住民は、我々と同じくモンゴロイド系です。シベリアとアラスカの間にある、ベーリング海峡がまだ氷に覆われて繋がっていた頃、そこを歩いて渡ってきました。基本は農耕文化です。主な農作物はトウモロコシ。米とか麦とか、穀物はありませんでした。家畜と言ったらリャマ・アルパカ。牛や馬はいない。高度な石造技術や暦を持っている割に、旧大陸では当たり前の“鉄”を知りません。あと、面白いのが車輪を知らなかったことです。何かとコロコロできません。

 

生徒:ってことは美顔ローラーもなかったんですか?

 

しま:あるわけねぇだろ!で、メキシコ湾岸地域に最初に現れた文明がオルメカ文明です。オルメカ゠ヘッドと呼ばれる巨大人面彫刻がごろごろ発見されています。そんなオルメカ文明を発展させたのがテオティワカン文明。「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」という遺跡が有名です。トルテカ文明は名前だけ覚えておけばOK。そして、メキシコ湾につきだしているのがユカタン半島です。

 

生徒:ゆかたん半島。なんかかわいい。

 

しま:ここで生まれたのがマヤ文明マヤ文明と言えば、複雑な形をしたマヤ文字。そして、天体観測を基にして作られた正確な暦ですね。あと、珍しいのが二十進法。ここでしか聞きません。

 

生徒:二十進法!?たしかに珍しい!

 

しま:では、メキシコ高原に戻りましょう。スペイン人がやって来た時、栄えていたのがアステカ王国です。首都はテノチティトラン。最盛期には約30万人もの人口がありました。ここ、湖に浮かぶ島なんです。現在では湖は無くなって、そこにあるのは街…シティ…そう、現在のメキシコの首都メキシコシティです。

 

生徒:湖上都市ってロマンありますね!

 

しま:アンデス高原では、メキシコとは無関係に、独自の文化が発展しました。まずは、チャビン文明。そして、地上絵でお馴染のナスカ文明。これらの文明の影響を受けて生まれたのがインカ帝国です。首都クスコを中心に、道路網を整備して中央集権的な国家を建設しました。クスコの町に残る石積みの壁には、隙間が無く、ナイフの刃も通しません。ただ、このインカ帝国…文字は持っていませんでした。代わりに持っていたのがキープ。日本語で結縄(けつじょう)と訳されます。縄を結んで結び目を作り、その形や数で数字を表しているんです。ちなみにこれ、数え方は十進法です。

 

生徒:文字はないけどキープはある!おもしろいですね!

 

しま:最後に。アステカ王国を征服したのがコルテス。インカ帝国を征服したのがピサロです。彼らはともにスペイン人。財宝や領土の獲得、そしてキリスト教の布教などが目的でした。彼らはスペイン語で“征服者たち”を意味するコンキスタドールと呼ばれます。あとは動画を観てね!

No.23(東)草原の遊牧民とオアシスの定住民

しま:青春かぁ…

 

生徒:いや!どうしたんすか、いきなり!

 

しま:…スキターーーーーイ!!!!!(夕陽に向かって)

 

生徒:え…?何!?博多弁!?え!?

 

しま:と、いうわけで今日は遊牧民のお話です。

 

生徒:どういうわけで!?

 

しま:遊牧民が活躍するのは内陸アジア。東はモンゴル高原、西はカスピ海、南はヒンドゥークシュ山脈、北はシベリア南部に至る広~大な乾燥地帯です。そこで遊牧生活を行っているのが遊牧民。これが馬に乗っていれば騎馬遊牧民

 

生徒:どんな生活をしてるんですか?

 

しま:家畜の飼育に適した環境を求め、季節ごとに移動するのが特徴です。そのため、移動に便利なテント式の住居(ゲルとか、パオとか)に住んでる。家畜と言えば羊、山羊、馬、牛、ラクダが主で、衣類、食料、住居のあらゆるものを家畜に依存しているよ。

 

生徒:なるほど。家畜こそが財産なんですね!

 

しま:そう。基本的には血縁的集団が重視されるけど、必要に応じて大きな集団を作ったり、解散したりする。我々よりもドライに感じるかもしれない。

 

生徒:確かに。僕は家畜をさばけませんし…ってまぁ、魚もさばけないけど。

 

しま:ちなみに彼らが移動する道を「草原の道」(=ステップ゠ルート)という。これは覚えておこう!で、最初に国を作った遊牧民がスキタイだ!

 

生徒:出た!スキタイ!博多弁じゃなかったんですね!

 

しま:スキタイは、紀元前6世紀頃に南ロシアに国家を形成するんだけど、何といっても動物文様の武具やクシなどの日用品の美しさに感動するよ!ここは、ギリシア植民市とも交易を行ってました。

 

生徒:で、そんなスキタイの影響を受けたのが匈奴ですね!

 

しま:そう!前200年には、白登山の戦いで匈奴の君主<冒頓単于>が、前漢の<高祖>を倒して、捕虜にしている。一方、西では月氏を倒して、西走させちゃうし(大月氏)、もう最強!

 

生徒:そんな匈奴を倒そうとしたのが<張騫>でしたよね!?

 

しま:<武帝>の命令で大月氏のところに行くんだけど…って話は前漢のところでしたね。実は張騫ってこの後、烏孫にも派遣されるんだけど、こっちもうまくいかなかったらしい。

 

生徒:その後登場してくるのが五胡の一つで、北魏を建国した…

 

しま:鮮卑族ね!昔はモンゴル系って言われてたけど最近はあいまいらしい。そしてそんな鮮卑と対立していたのが柔然。こちらははっきりモンゴル系。君主の称号として可汗(カガン)を初めて使った…

 

生徒:と、言われていたけど、今は鮮卑のころから使われていたとなっている。

 

しま:その通り。

 

生徒:はい先生!遊牧民ってまったく穀物とか食べないんですか??

 

しま:そんなことないよ!実は内陸アジアには、雪解け水とか地下水を利用できるオアシスも点在してるんだ。そういうところでは、灌漑農業を営むオアシス民が生活している!

 

生徒:なるほど。じゃあ、遊牧民にとってオアシスの農耕民との交易による物資の調達は重要だったわけですね。

 

しま:ですね。時としてそれは略奪行為に及ぶこともありました。交易と略奪の境界はあいまいだ。ちなみに、ラクダを引き連れた隊商が往来するルートを「オアシスの道」といいます。ただしこのルート…よく見てみると…

 

生徒:あれ?これってシルク゠ロードですよね!?

 

しま:その通り!19世紀にドイツの地理学者<リヒトホーフェン>が名付けた、あの「シルク゠ロード」なんです。

 

生徒:世界にはいろいろな暮らしをしている人たちがいるんですね。

 

しま:でもなぜか、遊牧民は何かあると必ず西へ移動する。分裂しても、征服されても、西へ移動して復活する…どうして西へ移動するんだと思う?

 

生徒:んー…なんででしょう?

 

しま:西へ沈んでいく太陽を、追いかけているからさっ!

 

生徒:青春や!!!

 

No.22(東)朝鮮と日本の国家形成

しま:さて、今日のテーマは朝鮮半島です。

 

生徒:ちょっとだけ出てきてましたよね。衛氏朝鮮前漢武帝が前108年に征服して、そこに朝鮮4郡を置いたとか!…あれ、なんでしたっけ?新歯のレントゲン?

 

しま:「新歯のレントゲン撮るの楽だろう」だね。真番・臨屯・玄菟・楽浪の4つの郡。特に楽浪郡は今のピョンヤンなので覚えておきましょう!で、そのすぐ後の前1世紀には、朝鮮半島の北方に高句麗という大国が生まれます。とりあえず先に高句麗だけ見ちゃいましょう。

 

生徒:こうくり………こっくり…zzZ

 

しま:いや、起きて!高句麗は、ツングース系の民族によって丸都を都に建国されました。313年にはさっき出てきた楽浪郡を征服して拡大。そして4~5世紀にかけて、広開土王(=好太王)の時に全盛期を迎えます!

 

生徒:あ、知ってるかも。百済と倭の連合軍を、2回も追い払った人ですよね!

 

しま:その通り!そして、彼の業績が刻まれているのが広開土王の碑です。とりあえず高句麗はこのへんまで。話を戻しましょう。後漢の時代、3世紀頃、朝鮮半島南部は“三韓”に分かれています。

 

生徒:三韓??

 

しま:馬韓辰韓弁韓です!これらは全て韓族ですが、方言によって分かれています。馬韓を統一したのが百済で都は漢城(現:ソウル)。辰韓を統一したのが新羅で都は金城。そして弁韓には統一国家が現れなかったので、加耶諸国があったと覚えておきましょう。

 

生徒:覚えるの大変…

 

しま:いや、新羅はしんだろ?辰もしん。ほら覚えたね。こっちは、百済だろ?で、馬だから…これはもうどうしようもないな。「ばかはくだらない」とでも覚えておこうか。

 

生徒:ばかはくだらない…

 

しま:ちなみに日本に仏教を伝えたのはこの百済!538年のこと。日本では高句麗百済新羅の三国を指して4~7世紀を朝鮮半島三国時代と呼んでいる。加耶は入ってないから注意だね。さて、もともと日本は加耶と手を組んでいた。でも、その加耶が562年に新羅によって倒されたので、日本は百済と手を組んだ。しかし、その百済新羅と唐の<高宗>の連合軍によって660年に倒されてしまう。日本は百済を再興すべく、水軍を送り込んで戦うんだけど…結局負けちゃうんだよね。

 

生徒:あ!中学校で習いました!663年、白村江の戦いだ!

 

しま:それです!中国は隋の時代に高句麗を攻めていた。隋の煬帝は3回せめて全部失敗。唐の太宗も2回攻めている。計5回攻めているけどなかなか勝てない。挟み撃ちにしないと勝てないんだよ。そこで高宗は、新羅と結んで668年、ようやく高句麗を征服します。と…何を思ったか、ここで新羅は唐を裏切っちゃうんですよ。突然唐の安東都護府を攻めて、もともと平壌にあった都護府を遼東まで押し出すんだ。これにより、676年、朝鮮半島新羅が統一したことになる。

 

生徒:でも、どうして新羅は唐を裏切ったんですか?

 

しま:だって、このまま手を組んでいても国力の差からいって唐に半島を取られるのは目に見えてるもん。それなら先に唐を不意打ちにして、朝鮮半島を確保しとこうってわけ。

 

生徒:いや、でも、そんなことしたら唐は怒って攻めてくるでしょ。

 

しま:だから新羅の国王は、この後、すぐ謝りに行くんです。突然うちの若い連中が攻めたてて申し訳なかった。これ、お詫びの品です(お詫びの品ズラーッ)。今後は、あなたの家臣として、言うことを何でも聞きます。朝貢いたします。だから、朝鮮半島は、任せてください!って。

 

生徒:なんかうまいですね。家臣になるって言われたら、許すしかないですもん。

 

しま:こういう関係のことを冊封体制といいます。詳しくはまた後で。さて、新羅の都は金城(慶州)。ゴリゴリ仏教国です。仏国寺とか石窟庵があります。骨品制というのは、苗字で身分が決まる制度。難しく言うと血縁的身分制度だね。以上!とりあえずここまで

No.20(東)北魏と南朝

しま:さて、いつになったら華北は再統一されるかというと…439年!これは鮮卑族によって!“北魏”という国ができます。ってわけでここから中国の南北朝時代がスタートです!

 

生徒:えっと…北と南で、それぞれ王朝が交代していく時代…ってことですよね!?頭がごちゃごちゃになりそう…

 

しま:よしっ!じゃあまず北から!北は鮮卑族によって北魏が建国される!建国者は拓跋珪さん。いかにも鮮卑族って感じの名前だね!皇帝としての名(諡号)は道武帝です。都は平城。次に出てくるのが3代の太武帝!この人の時に華北五胡十六国を統一しました[439年]。あと、道教を国教化し、廃仏を行いました。いわゆる“三武一宗の法難”ってやつです!

 

生徒:あれれ?次の6代皇帝の孝文帝、都を平城から洛陽に遷していますね!?なんでですか!?

 

しま:郷に入っては郷に従え。だよ。

 

生徒:え?どういうことです?

 

しま:いくら鮮卑族華北を統一した!って言っても、支配される側の漢民族の方が圧倒的に数が多い。例えるなら、お風呂の湯船の中によだれをだらー…っと一滴垂らしてしまったくらいのもん。じゃあ、どうやって大多数の漢民族を支配するか…そう。郷に入っては…?

 

生徒:郷ひろみ

 

しま:ジャパーーーン!

 

生徒:すいません。

 

しま:本当だよ!まぁいいや。で、孝文帝は“漢化政策”を実行します。例えば、土地を均等に配分する均田制!そして村落制度である三長制!他にも胡語や胡服を禁止して、鮮卑風を無くそうとするんです。でも、これによって鮮卑は弱体化が進むことになります。

 

生徒:そりゃそうですよ。鮮卑らしさが無くなっちゃうんですもんね。

 

しま:というわけで534年!北魏は内紛によって西魏東魏に分裂しちゃいます!さらに、西魏北周に、そして東魏北斉へと変わります!その後は北周北斉が戦って、最終的に北周が勝ちます。そんな矢先、北周外戚下剋上で即位します。そして生まれたのがみんなご存知の隋[581年~]なのです!この隋が589年に南北統一を果たすのです!

 

生徒:おぉ!なるほど!遣隋使の隋ですね!

 

しま:そうそう!じゃ次は南の話!南朝[420~589年]です。南は、都を同じ健康に置いた4つの国でのバトンリレーです!順番に宋➡斉➡梁➡陳です。で、さっきも言ったけど、陳が589年に北魏によって統一され南北朝時代終了です。ちなみに、江南地方の新田が開発されて、門閥貴族による大土地所有が始まったのはちょうどこの頃です!はい!おしまい!

 

生徒:あれ?先生…プリントに”六朝”って書いてあるんですけど、これってなんですか?宋➡斉➡梁➡陳だと4つしか無いんですけど…。

 

しま:六朝(りくちょう)ってのは、建康(建業)に都をおいた、三国時代の呉、さらに東晋、そして南朝の宋・斉・梁・陳の総称なんだ。文化の話もすると、有名な人が3人出てくる。これ、みんな東晋の人です。陶淵明は詩。王羲之は書道。顧愷之は画です。詳しくは文化のところでおさらいしましょう!

No.21(東)隋

しま:小野妹子が男だって♪僕は今気付く♪勘違いだってディスティニー♪

 

生徒:なんすか、その曲。

 

しま:え?知らないの?レキシの『妹子なぅ』だよ。

 

生徒:いや、知らないでしょ。…あ、でも、いい曲。

 

しま:じゃあ今日はこの曲を聴きながら、小野妹子が訪れた“隋”について勉強していこう!さて、北周外戚だった楊堅(ようけん)が帝位を譲り受け、建国したのが隋[581年~]です!彼は鮮卑族だといわれている。

 

生徒:あれ?隋の都が大興城(旧、長安の郊外)となっていますが、これってどういう意味ですか?

 

しま:これまでの長安の近くに、新たに建てた都が大興城です!つまりはNEW長安です。それが隋の時代には大興城と呼ばれていたわけです。次の唐の時代には、ここが長安と呼ばれますよ。

 

生徒:なるほど!

 

しま:さて、隋の建国者楊堅は、諡号では文帝です。隋で登場する皇帝は、この文帝と次の煬帝の2人だけなので、それぞれの皇帝の業績を追う形で、確認していきましょう!まず、楊堅(文帝)は、581年に禅譲で即位した後、突厥を討伐します。突厥はこれで東西分裂。その勢いのまま589年、南朝最後の陳を征服し、南北朝を統一。長かった分裂時代を終わらせ、中国再統一を果たしました。内政としては、598年に科挙を始めたことを何が何でも絶対に覚えておいてください!

 

生徒:科挙!聞いたことあります!官僚を選ぶための儒学の試験ですよね!

 

しま:その通り!とりあえず今はその知識だけで十分!以上、楊堅の業績でした!次は2代の煬帝!この人は楊堅の息子さんです。

 

生徒:…あれ??先生ちょっと待ってください。漢字間違ってませんか?

 

しま:良いところに気付いたね!実はこの煬帝、本名は楊広というんですが、父親と兄を殺して即位した上、いろいろと民衆を虐げたたために、“煬”という縁起の悪~い漢字を付けられてしまったんです。ちなみに、煬帝の読みは「ようてい」ではなく「ようだい」ね。

 

生徒:どんな風にしくじったんですか!?

 

しま:何といっても3度にわたる高句麗遠征の失敗。これがチョー痛かった!(ちなみに、高句麗を征服したのは唐の3代の高宗です)。他にも大運河の開削工事で、たくさんの人員を徴発し…まぁ戦争やら土木工事やらで、人々はくったくったになったんですよ。

 

生徒:それで、各地で反乱が起きて618年に隋滅亡…ということですね。

 

しま:その通り。ただ運河に関しては、それまで中国に無かった南北を繋ぐ経済の大動脈として以後の社会には欠かせないものとなります。この後の唐の繁栄は、この運河のおかげといっても過言じゃない!

 

生徒:そうですよね。中国って東西には大河が流れてるけど、南北には無いですもんね!ちなみにこれ5本全部覚えた方が良いんですか…?

 

しま:きついよね…。盲点になるのは、黄河~涿郡を結んだ永済渠かな。涿郡ってのは今の北京で、ここから高句麗を攻めるために、武器や食糧を運ぶ必要があったんだ。

 

生徒:でも、そこまでしても結局、高句麗遠征は失敗しちゃうんですもんね…

 

しま:そう。さて、618年に隋の将軍だった李淵によって建国されたのが唐です。って…あっという間に隋が滅んじゃったけど、ちょっとだけ時間を巻き戻して遣隋使の話をしておこう!607年、小野妹子が遣隋使として中国に渡った時の皇帝が煬帝ね。実はこの時、煬帝は国書のある文章を読んで激おこしちゃうんだけど…国書になんて書いてあったか知ってる?

 

生徒:中学で勉強しました!確か「日出処天子至書日没処天子…」ですよね!?それで、「日が没するところとは何事だー!」みたいな。

 

しま:おぉ、素晴らしい!でもそれじゃ中学生レベルだ。みんなは“世界史選択者”として、レベルアップを目指そう。煬帝が怒った理由として、当時中国皇帝にしか使用されていなかった「天子」という言葉を日本も使ったことがある。中華思想からすれば、周辺民族は中国よりも下。あくまでも中国を慕ってやってくる存在でなければならないんです。同格扱いなんて有り得ないよね!

 

生徒:…でも先生。そもそも、「日が沈む」とか「日が昇る」って、東西を意識しているわけですよね?それって、その中間に居る人間から見た視点ってことになりませんか?もしかしてこの文章、倭国と隋のあいだに居た人物が考えたんじゃないですか??例えば…高句麗が、倭国と隋の挟み撃ちを避けるため、とか!

 

しま:そうそう!わずか数行の国書から、当時の国際関係が読みとれるなんて面白いよね!じゃあ、最後に隋の制度を見ておしまいにしよう!北魏時代から徐々に整備されてきた国家制度が隋の時代に実を結んだと考えてね。

 

生徒:はい!

 

しま:均田制によって国から土地を支給される農民を均田農民といいます。均田農民は土地を支給されるかわりに、国家に租庸調を納める。租は穀物、庸は徭役(一年のうち一定期間政府に労働奉仕)、調は特産物。さらに均田農民には兵役がある。均田農民によって編成される兵制を府兵制と言います!ただし、徴兵されれば租庸調は免除!というわけで、均田制と租庸調制・府兵制はセットで実施される制度です。これによって、王朝は豪族に頼ることなく、直接農民を把握し、軍事力を手に入れることができたわけです!

 

生徒:なるほど!セットで覚えろってことですね!

 

しま:ちなみに、この頃中国北方にはトルコ系遊牧民突厥という人たちがいる。モンゴル系の柔然を破ったことや、突厥文字という遊牧民初の文字を持っていたことがポイントだね。ちなみにこれはオルホン碑文から解読されたんだよ!2013年には、もっと大きな碑文が発見されて、注目を浴びています!

 

生徒:石人(せきじん)なんかゆるキャラみたいでかわいいですね。

 

しま:あ、そろそろ『妹子なぅ』が終わる!…踊ろう~妹子が男だって♪泣いたりはしない♪

 

生徒:…あれ…そういえばこの曲…似ている曲があるような気がする…

 

しま:勘違いだって♪

 

 

Journey to the star(^^

 

 生徒:わかった!ゴダイゴの『銀河鉄道999』だ!

 

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